喀血についてのニ、三の思い出。

それは、入院した時のことだった。高校に入学した年の秋口のことだ。
あんまり笑ってしまうのだけれど、僕は喉から血をだしたせいで入院していた。残念ながら肺病ではない。外傷だ。剣道部で、二年生から何度か突きをくって、血を吐いてしまったのである。自分でも驚くくらいに真っ赤な血だった。量はたいしたことがなかったのだが、後々まで忘れられないくらいに鮮烈な色だった。
後に聞いたところでは、その「突き」は上級生からのいわゆる「シメ」だったらしい。僕は当時から生意気なうえに不真面目な子どもだったので、つまり、そういうことらしい。僕が入院までしてしまったことで、部のほうでは色々と問題になったらしいが僕はそのまま辞めてしまったのでよくは知らない。
ともあれ、そういう理由で入院して、僕は大部屋に入った。思い出というのは、そこで同室になったおばあさんの話だ。数日しか一緒にいなかったし、僕は喉のせいで喋れない。喋れないのに他人の顔を見るのも憂鬱だということでもっぱらカーテンを引いて、ひとり本ばかり読んでいたせいで、おばあさんの顔は覚えていない。今会っても分からないとおもうのだが、ある日、ものすごく印象深い出来事があったのである。そのことだけをひどく覚えている。
おばあさんの子どもらしきおばさんがお見舞いに来ていたのである。子どもといっても、もちろん結構な年だ。僕の母親くらいの年の声の感じだった。
カーテン越しに僕はその人の声を聞いていた。姿は見ていない。
その日、おばあさんはひどく咳き込んでいた。痰の絡んだ、いやな音の咳だ。ぜいぜいと、聞いているとこちらまで喉がからんでいるような気分になる咳を、ひっきりなしにしていた。つられて咳をしそうになって、喉が死ぬほど痛くて困ったのを覚えている。うるさいなあ、と思いながら僕は本を閉じて何度も寝返りをうっていた。
「おかあさん、大丈夫ぅ?」
となりではおばさんがおばあさんに話しかけていた。おばあさんは答えようとしているのか、不規則な咳ばかりしている。
「おかあさん、覚えてるぅ?」
おばさんの声は別に冷たくもなく、何の気なしの思い出話というような調子だった。語尾を軽く延ばすような癖。逆にその場にあっていないといえばその通りなのだが、おばあさんの咳が日常茶飯事のことならば、まあ、不自然ではないのかもしれない。
「わたしが小さい頃、喘息で咳が止まらなかったとき、おかあさん、うるさいって言ってスリッパでぶったの、覚えてるぅ?」
おばあさんの咳は止まらなかった。むしろ、むせるようにひどくなったかもしれない。
「おかあさんは忘れちゃったかもねぇ」
おばさんの声の調子は変わらなかった。特に責めるようでもない。ぼうっとした、はきはきしない喋り方だ。おばあさんは相変わらず、ぞうぞう、ぞうぞうぞう、と咳をしている。
僕はその時点で、このおばさんが老母を叩いたりするんじゃないか、と結構怖い思いをしていたのだけれど、次の一言で本当に震え上がった。震え上がったというか、全身から鳥肌がぞぞおっと立って、カーテンがしまったっぱなしであることを感謝した。おばさんはしばらく黙ったまま、おばあさんの咳を聞いていて、そして、咳のとまらぬままのおばあさんに言ったのだ。
「…でも、いいのよぉ」
低い、甘えるような声だったけれど、僕はそこにまぎれもない悪意を感じた。底冷えのする、おそろしい声だった。その場から逃げ出したくなるほどの恐怖だった。喀血、というとそのことを思い出す。オチはない。そのあたりから、僕は人間が一番怖いと思うようになった。この話にオチはない。ただおそろしいだけの話だ。