ひさびさに

気力が回復しましたので書いております。
ただいま夜勤明けて帰ってわびしく朝食などとって、さあ寝るか、寝る前に三国無双やるかそれとも本棚ひっくりかえしてテル*1三国志でも読むかと思案していたわけであります。

ちゅかここ数日、嘘、数週間ろくすっぽ更新しなかったのはつまりその、なんといいますか例の厄介な事態が尾を引いておったのであります。今回、完全に決着がついたのでここに、こう覚書をしておこうかと。

厄介な事態、というのはつまりその、遺産相続の問題でありました。というのも、生前僕のことをとても気にかけてくれていた親戚が先日、ふいにぽっくりいかれてしまいまして、しかもその死に際を看取ったのが他ならぬわたくし、というところから問題が勃発したのでありますね。
いえ、まあ、その、年末あたりから、もしかしたらそういう事態になるかもしれないなあ、という予測はできていたんですが、なにぶん僕も人間が至らないものでその親戚の家の子ども(といっても僕からすると随分年上なんですが)などに知らせずにいたのであります。なぜって、まあ、判りやすい理由ですが、あちら様の家庭の不和というかなんというかそういうのもありますし、もちろん、僕が彼らを好きでなかったというのもあります。でも、少し悩みました。本人が望まなくたって、今際くらいは家族を呼ぶべきじゃないかとか、今までがどうだったとしても、実の親がそういう事態になれば人間少しは変わるんじゃないかとか。でも、結局のところ、僕は彼らに知らせず、親戚の最期を看取ることにしたのであります。
いまだそれが正しかったのかどうか判りません。判りませんが、僕は自分の選択について、「仕方がなかったことだ」だとか「選びようがなかった」とは言いません。僕は自分で考え、そして決断したのです。いくらでも選択肢はあったなかで、「誰にも言わない」、「自分が看取る」ということを決めたのです。
僕は、親戚の実子たちに知らせないかわりに、自分の家族にも、もちろん友達にも言わないで秘密にしてきました。もちろん、親戚が逝ってしまった後、親戚一同からこっぴどく叱られ、社会人としての常識がないとか何とか、ひどく言われました。すまないとも思いました。正座して、謝っているうちに涙が出てきましたが、それは自分の判断が間違っていたことに気付いたからではありませんでした。こういう結果になることを僕らはわかっていたのです。
最後の一ヶ月、もうあまり外へ出かけられない親戚と二人、親戚が死んでしまった後に僕がすべきことを調べたり、考えたりする時間が、とても多くありました。端末をつないでwebで調べ、二人でああしよう、こうしようと話すことがとても多くありました。たとえば、最初にどこへ電話をすればいいかだとか、官公庁への届出はどうすればいいかだとか、死んでしまったことをどうやって確認すればよいかだとか、本当に実務的なことばかりです。「わたしはもうだめだからねえ」と親戚はよくいいました。もちろん僕は気休めを言ったりはしませんでした。ただ、そのときが来たならば、あまり苦しくはないように、と祈るだけでした。
親戚はもうすぐ死ぬということを受け止めていました。やりたいことはやったし、薬を飲んでいれば痛いことはないし、とよく言いました。とても、大人な人でした。僕たちはまるで旅行の計画を立てるように、親戚が逝ってしまったあとの計画を立てました。なるべく計画のうちもらしがないように、webをつかったり、冠婚葬祭のハウツー本を買ってきたりして、準備を少しづつ万全に近づけながらしばらく一緒に暮らしていました。
「親戚に叱られるのは間違いないので謝ること」
そういう一節が僕のノートには残っています。その後には事細かにどうやって謝るべきか、どういう謝り方をすべきか、どのタイミングで謝るか、というようなことが書いてあります。親戚と、二人で考えたものです。親戚は、時折愉快そうに、迷惑をかけるね、と、そして時折ひどく眉根に皺を寄せて、すまないね、と言ったものです。
僕は正座して、頭を下げながらそのことを思い出していました。
…僕と親戚はこれを予想していた。僕らは、こうなることをわかっていたのだ。だから、これは不幸なことではない。親戚が死んでしまったのは不幸なことではない。すべては予定通りのことだったのだから、悲しむことはない。僕らはそれを受け入れていたのだから。それは悲しいことではない。
そう考えると、涙が出てしまったのです。悲しいわけでも、嬉しいわけでもなく、ただ涙だけが流れました。涙が出るというのは、こういうことなのだと僕は知りました。
思い返してみると、親戚がこの世を去ったのが先月、2月の16日のことです。バレンタインの次の次の日でした。あれから、あと少しで一月が経とうとしているのですね。今年に入ってからは、休みや、また日勤から夜勤に変わる半休などを利用して、頻繁に顔を出していたのですが、去年までは二カ月に一度会うか会わないかくらいの関係でした。だから、こうして一カ月が経ちそうになると、ああ、そろそろ会いに行かなければなあ、などと頓珍漢なことを考えたりしてしまうのです。人を失った喪失感というのは、地震の揺り返しのように、少しづつ、時間を置いて、人をゆさぶるものだと、改めて気付かされます。

と、まあ、そんな具合でわたくし、バレンタイン直後、25歳にして初めて喪主代理というものを勤めたりなんたりして雑務全般を切り回し、(さすがに葬式本番の時はさすがにホンモノの喪主こと親戚の実子がやってきましたが)、物凄くスンゲー忙しい日々を送っていたのであります。日々といってもまあ、二日だけですがさすがに不眠不休でした。クマできた。
で、葬式終えてさらに忙しかったのが遺産相続でありました。わざわざ弁護士の先生を呼んで遺言を作成して封をして、さらにそれを弁護士の先生に預け、準備を万全にしていたはずだったのに、親戚はここでひとつだけ、僕を裏切ったのです。
遺言状の中身です。
絶対に僕の名前は書かないという約束だったのに、そこには僕の名前が書いてあったのです。
もちろんもめました。ものすごい揉めましたね。大揉めというか、もう、これはリアルワタオニか、っちゅうくらいに揉めました。仕事を終えてへとへとになって帰ってきたら、そこから第二ラウンドが始まるわけですよ。
細かいところは省きますが、結局、土地と現金と株券は相続放棄して実子に譲って、他の、特記してある貴金属類だけを相続する、ということで話は落ち着いたというか終わりました。それも「(本来は私達が受け取るべき形見だから)決して売り払ったりしないこと」という念書まで書かされました。ありえない。言われなくたって売らない。最後のほうなんて、もう精神的・肉体的な疲労で半分泣きながら謝ったりしてました。おねがいだから寝かせてください、とかなんとか。ありえない。本当ありえない。思い返すと気持ち悪くなります。

オチもなく、ただ暗い話でごめんなさい。恨み節のようになってしまってごめんなさい。読み物としては面白いものじゃないと思います。気持ちの整理をつけるために書いただけみたいなものです。ごめんなさい。
ただ、最後に一つだけ明るい話があります。この話は全部嘘だということです。

じゃかじゃん。