しょうがない人にモテる話から始まって愛のいびつさに終わる話。

オチのないはなし。

突然だが僕はモテる。
特に年上にモテる。年上の、それも割としょうがないオッサンなどにたいへんモテる。好かれて好かれてマテリアルなど貰うならまだやりようもあるが、大概相手は「しょうがないオッサン」なので愛情表現がいびつである。意味もなく話しかけるのが苦手なのか、人のちいさな粗を探し、この件についてだけどちゃんと判ってるの、などというような意味のことを毎度毎度話しかけるきっかけにしてくるので、こちらとしても機嫌のよいときは対応するにやぶさかではないのだがいい加減苛々することもあって、相手のいい終わらぬうちに返事をしてやるのだがそれがどうも癇に障るらしい。もっとも、相手のペースに付き合って「えっ、○○じゃないんですか」と驚いてみせたとしても、僕が事態を把握していることを端に匂わせてしまうと途端に面白くないらしい。かといって、判らないので判りませんと返事してもそれはそれでつまらないようで、会話が続かないのである。時折続くにしても内容のない話ばかり。かといって話しかけてくるのをやめようとしないので、これはモテてるのだなあ、と思うしかないが不毛である。何せ相手はオッサンだ。しかも会話の内容も不毛である。不毛というならば、まだ居酒屋で隣の酔っ払いとレッサーパンダが立ったとかどうのとかいう話をしていた方がマシである。
要するに僕の最近の心境を発表すると、どないせいっちゅうねん。に尽きる。別にいいけど。大した実害があるわけではないし、どうせオッサンなのだから僕より先に死ぬし。オッサンが死ぬその時まで今の会社にいるかどうかは判らないが、コイツはほぼ間違いなく僕よりずいぶん先に死ぬんだなと思えば腹立ちもまぎれようもの。
ともあれ今日はさすがに温厚な僕といえどもさりげなく沸点を越え、次に同じことがあったらちょっと棒とかで撫でてやろうかなあなどと決心を固めたわけだが、帰り道。

電車中にて先日薦められた川原泉(なんで『革払い済み』って変換されるんだろう)の『フロイト1/2』を読み返していたのだが、なんとはなしにふと涙ぐみそうになって驚いた。何よ。そんな切羽つまってるわけ?自問自答の末に別に悲しいというわけではなく、単に泣きたいのだなあ、ということに気付いた次第。
少し話が外れるが、僕は人を憎むことが多い。以前はなるべく嫌いな物とは関わらないように関わらないようにと生きていたのだけれど、そうやって好きになれないものを、初めから無かったことにするよりは、嫌いな物に大してきちんと向き合い、きちんと嫌って、きちんと憎んであげることの方が、生きるという意味で誠実なんじゃないか、と思うようになったので、憎む時には憎むことにしている。しかし、どうにも長い間闘争というものを避けて生きてきた結果、憎むと疲れるのである。
そして最近。いただけないことに、憎むことに疲れ、疲れた反動で僕は何かを愛そうとしているようなフシがあるのである。憎むより愛する方が自然なのは当たり前の話なのだけれど、悲しいかな、僕は今愛するべきものがないのである。いや。嘘、軽い嘘をついた。嘘をついたというよりは嘘になってしまう、というべきかもしれない。僕は別れた恋人のことを愛していると思う。家族のことも愛しているし、友達の事だって、これを読んでいるあなたのことだって愛していると思う。
けれど、この愛はいびつだ。僕という皮袋の中を、出口を探す盲目の鼠のように逡巡するばかり。ぐるぐる回って、回っているうちに虎ではなくバターになってしまったのだ。どろり。もはや似ているのは色だけだ。僕は人を愛するあまり、そのものから離れよう離れようとしている。自分を愛そうと思えば、他人に迷惑をかける。他人を愛そうとすれば自分がおぼつかない。この数ヶ月、僕は自分のことを愛そう愛そうと頑張ってみたけれど、結果気付いたのはやはり人間として生きるために、自分を愛するというのは単に必須のことであるというだけであって、自分だけを愛して愛しぬいた先には特に何もない、ということであった。自分を愛した先には、人を愛したり、快適に暮らす土台が出来上がるだけの話であって、土台の上に何かがないと特に何もない話なのである。
でもって、土台が出来たからその上に何かを建設したり奉ったりしたいというのはほんとうにいびつだと思う。本末転倒というよりも、いびつ、といった方がしっくりくる。いや、実際自分でもよく判らない。ただ、不乱に何かを愛したいと思うその気持ちが、いびつなのだと心の奥で声がするのだ。何かを愛したい、という言い方がそもそも不純だ。どうしていきなり動詞にしてしまうのだ。本当は、「愛したい」なんていうのは「雨が降りたい」というようなもので、意味がわからないのだ。愛なんて雨だ。勝手に降るし勝手に止むし、勝手にどうしようもなくなってしまうものだ。

愛だ恋だとなんだかやかましいことを言いかけてしまったが、僕は恋人のことを愛のはけ口のようなものとして利用していたのではないかと、心の奥で誰かが言うのである。「愛」なんという字面だからといってそれはけっして高尚なものではないし、溢れた「愛」は「愚痴」と同質のものでないという保証もどこにもない。見方によってはただの排泄、垂れ流しでしかないことも大いにある話だ。今、愛のはけ口、という概念について、他に書いている人はいないかと検索してみた。はけ口というのは要するに雨どいの先である。ドブに直結しているのである。ともあれ検索の話。検索したら、けっこういた。こちらの、まるで狙い澄ましたかのようなページ最上段、僕の二番目に好きな映画であるところの『マグノリア』の感想。クリックした続きである。だらだらとこの日記を書き流している最中にちょっと浮気して目を通すだけのつもりがまったくもって目から鱗であった。僕が言わんとしていることのほとんどはこのすばらしいレビューの中に書いてあった。そうなのだ。僕が言いたいのは、愛のこの、眩暈のするような多様性なのだ。この映画で描かれたことを要約して語ることは僕には出来ない。この三時間あまりの長い映画の中でまったくさまざまな人間が登場し、それぞれのlove youと、それぞれのfuck youを語る。これだけfuck youとlove youが並列に存在する世界は、この映画の中でなければ、おそらく僕らのいるこの現実世界くらいしかない。
話がズレた。そしてなおかつこの長文をまだ読んでいる人もごくわずかであるに決まっている。構わない。なんだかさっきのページを見つけただけでやや心が満足したので今日は残り、思ったことを思っただけ書こうと思う。脈絡というものは全て終わって、どっとはらい、と書いた時点で決まる。途中でいくら脈絡がないなあこいつの話は、と思ったとしても、どっとはらい、を目にするまでは我慢して聞くが肝要というものである。別に面倒であれば最初と最後の行さえ読めば事は足りる。いつだって僕はそういう風に書いている。
ともあれ、なんだ。愛の話だ。ちきしょう。酔っ払ってない。酔っ払ってないのにタイトルで書いたとおり愛の話なんかしてしまっている。本当は川原泉フロイト1/2、劇中の台詞『弓彦くんは/お金が/好きだけど/嫌いなんだ/ね』というソレにうかつに涙しかかったという話をしようと思っていただけなんです。

そうなんだ。
好きだけど、嫌いなんだ。
今は、人に、ものすごく愛していると言いたい気分なのだけれど、それが、単にくだらんオッサンを憎んでしまったストレスからくる反動なんじゃないかだとか、単に愛のはけ口を求めてるだけなんじゃないかとか、そういう風に思うんです。僕はいつだって愛のまんまで生きていたいと願っていて、まるで何かを愛さないとおかしくなってしまうように思うのだけれど、それは時々、とても疲れるんです。僕は『愛』というものがたぶん、好きだけど嫌いなんだと思うのです。好きか嫌いか、どっちが本当か、もうよく判らない。寝ます。

どっとはらい