昨日は

鈴虫あきうせい夫妻とお酒など飲んでました。たいへんたのしい会でした。はい。
昨日は普通に酔っ払ったので覚えていないことばかりですが、何かを話していたとき「途中まではすごくよく判ったのに最後の例えでいきなり全部判らなくなった」というようなことを言われてすごく面白かったです。僕は本当に比喩が得意だなあ。
あと、普通に精神生活とかを心配された。追い詰められて死ぬくらいなら逃げちゃえばいいんだよとか薦められた。なんだ。その、えーと、なんかすごく自分がたいへんな位置にいる気がしてきた。
ともあれ愚痴などなく、いやな出来事などに対してもただ「ありゃどうよ」と割とあかるいノリで話題に載せられるというのはいいなあ。すばらしくいい。真面目な議論も時にはきっと必要なのだろうけれど、何でもキチッと普遍的な答えのようなものを出そうとするのは僕には割と向かない感じです。
御大が遭遇したという町内会イベントも、僕などからすれば、まあまあでは結論は全員参加の会議の折にネ、程度の軟着陸以外の選択肢が見つかりません。そういっとけば永遠に結論は出ないままでいずれ風化。おとな。OTONA。頭にGをつけてGo to Next Attractionですよ。行列は行列でおいといて、次の乗り物へ。これって、万人のための社会構築とかコミュニティ構築とか、そういうものの輪の外ですか。でもいいの。そのへんはそのへんが好きな人にまかす。社会が悪くなれば、悪くなった社会でどれだけ健全に生きられるかに苦労すればいいの。生きづらい世のほうが、生き抜くにはたのし。
まー思い返せば僕はこの数年、カチンと来て揉めた末にいつも「ちょっと時間をおきましょう」というような軟着陸をしつづけてきていました。基本的には、やりたいようにやる、無人の夜の町を行くごとく、というのが理想です。
徹底的に人の意向を気にしないというのと、徹底的に人を個として尊重する、というのは矛盾するように見えて実はものすごく近いものなんじゃないか、とか、最近思うようになりました。自分の意見と相手の意見がぶつかりあって、どちらが正しいとかどちらがよりよいものかを比べるのではなく、「ぶつかりあうだけ」というのが僕の理想とする人間関係なんじゃないかなあ、とかとか。
ま、その末に結論を出さねばならぬ場合というのもそりゃ長く生きてりゃあるのですが、そんなものは滅多にないし、さらに時間は流れ、平等に全てのものが変わってゆくこの世界では、出した結論すら変化してゆくのが当たり前なわけで。
僕は真実自由に生きてみせます。「だってあの時決めたじゃん!」「だってあの時こういったじゃん!」とか言われても、なんの臆面も、なんの後ろめたさもなく「あの時はあの時、今は今!僕は今!<更新>されたッ!」と言い切って、真実その通りに生きてゆきます。
結果、「あいつの<絶対>は軽い。薄っぺらい」とか言われることにもあるんだろうけれど、それでもいいの。僕は<すべては変化する>ということを<絶対>とします。

よく寝たせいか、今日はなんとなくバイタルが充実しているのかも知れません。すべての災厄よ降りかかりたくば来給え、すべて千切って投げて其処を無人の野にしてやらんかな、という心持です。生き抜く力。バトル漫画的言い回しで言うと「ハッハ!いくらでも来てみろってんだッ!おんなじだッ!来ただけ全部ドログチャにしてやるぜッ!俺はッ!逃げ切ってッ!みせるんだッ!(返り血に塗れながら)」みたいな。ちっちゃいツがたくさんです。
僕を生きづらくするものから逃げ切って、僕は僕の幸福を探します。万人に理解されることなくともよいです。

ところでまったく関係ないですが、MUSICAL BATONがどこからも飛んできません。答えたら次の五人へまわすって、何回かで天文学的な数字になるはずですが、僕の上は素通りです。はてダの輪から外れたところにいます。ライ麦畑で妹が落ちないように見張る人の心持というのはこういうものなのかしら。天狗の心持だ。
えーと、その、なんだ。これはアレです。部活に入ってない子が眺める放課後のグラウンドに対して感じる一抹のさみしさのようなものでしょうか。てゆーかはてダユーザーはここのブログにほっとんど来てないっちゅことか!?それとも僕の音楽の趣味になど興味がないということか!?などと激昂してみてもひとり(みつを)。

ちなみに最近はピチカートばかり聞いています。あかるいおんがくはいいなあ。