病気が出た。

出た。
均しく皆がかかる病だ。なんと言えばいいのかこの病。俗世から離れ、やや快方へ向かった筈がいつの間にか再発。よい機なので病に名付けよう。付ければその名は、求進嫌留の病。きうしんけんるのやまひ、である。
此の病、一度発症するや否や、早速膏肓に入る次第。膏肓に入ったが最後、なかなか出てゆかない。それこそ死に至る病。感染力とその悪質さについては折り紙つき、である。
主な症状としては、「やる」「やらない」という二元論で話を始めることだ。そして「やる」こと、つまり、アクションを起こすことを「正」と勝手に決めつけ、「やらない」ことを「負」として排斥するのである。昨日の僕の日記を見ていただきたい。読み返してたった今、心がばきっと音を立てて折れそうになったので文末だけ少し修正したが、概ねそのままにしてある。箇条書きに直す前、あんまり長いこと、長々と描いていたので頭がおかしくなっていたのであろうと推測される。
さて、これを問題だと思わないことこそ問題なのである。あなたの心にきうしんけんるが巣食っているのである。

ものすごく端的に言うと、つまり僕が言いたいのはこういうことだ。
書かない、しない、動かない、そんなことで引け目を感じたり、やらねばならないだのなんだのと思ってほしくないのだ。あなたが幸福に生きていればそれでいい。別にかつて創作に携わったからといって、その後ずうっと書き続けたりなんか、しなくても構わないと僕は思う。才能があったとしても、別に浪費しても構わないと思う。書かずにいても日々、楽しく暮らせるのであればそれでいいと思う。
あなたが筆を取るか取らないかは、才や可能性が決めるのではなく、肉体を持ったあなたが、自分が「したい」か「したくないか」で決めることだ。書くことなんていうのは特別なことではない。誰にだってできることだ。それを指して音楽家は「あなたの歌がある」という。小説家は「あなたの物語がある」というだろう。画家は「あなたの風景がある」というだろう。だがそれと同じ次元で、同じ厳正さであなたには「あなたの寝相がある」のだ。日々を愛してほしい。書かないことなんかで目を曇らせて、自分はダメだ、などとうつむかないでほしい。今のままで充分いいんである。
万人から「オマエが筆を取らないのは人類の損失だ」と非難されても、気が乗らなければいつまでだって書かなくたっていいんである。書くことも、努力することも、別にそれが好きで、気が乗ってくればすればいいだけであり、それは別に「正」の行動ではないんである。人生に「正」の方向は特にないんである。
人生は前に進むことだとは限らない。例えば、波間に、沈まぬように浮かぶものだと考えてみればいい。沈まねばよい。向こうの島へ向かって漕ぐも漕がぬも各人の自由である。星を求めて漕ぐも漕がぬも各人の自由である。沈まねばよい。人によっては魚を求めて潜ろうと望む人もいるだろう。だがそれはそれでいい。波間で、その場にとどまり、ただ魚を眺めたり波の音を聞いたり、通り過ぎる人と声を掛け合って、それを幸福と思って、幸福に暮らしてくれればいい。
別に、海流に逆らって漕ぐのが偉いわけではない。きうしんけんるのやまひに落ち込まないでほしい。ただここにいてそして不幸でない、というのはたいそう素敵なことなのだ。

もう遅い。おやすみなさい。どっとはらい