道程未だ半ば。

しかし半分までは来た。そう思いながら暮らす日々。人間、不思議なもので半分まで来たと思うと引き返したくなくなるもの。
僕は自分の気持ちというものの立脚する根拠を信じない人間である。ゆえにしばしば、自分を縛るものから自由になるために、あえて強固に自ら縛る、ということをする。

例えば一人になりたいと思ったら、逆に徹底的に社交的な生活を送るのだ。もの患う隙間も許さぬほど絶えず人の中にあり、孤独の立ち入る隙を無くしてみる。それでも結構やれるのなら、それは真実に孤独を欲していなかったということだ。時折そんなことを考える。
さて、ならば僕は真実に何を欲しているのかと考えれば、やはり健全な孤独ではないかと思う日々である。さしてこれを「さあヲベロン精神的にいよいよやばくなっております」というシグナルととる方も多いようだが、僕は割合幸福の中にいる。
けして人から羨まれない類の幸福を僕は信じる。よいのだ。帰る家があり、食うに困らず、ひとりの部屋があり、幸福な記憶と、それを噛み締める時間が少々あればそれだけでよい。むしろ充分過ぎるくらいだ。
幸福とは、捜しあてるものでも手に入れるものとも違う。肯定するものだと僕は思う。世のいかなるものでも幸福の種子である、とは使い古された言い草だがその言葉は一面、真実の園にある。
日々にある幸福を知るべし、だ。何もないが幸福、というのではない。そこには、日々には、必ず何かがある。繰り返しを愛するのではない。繰り返されるものを愛するのだ。
僕は、僕がまだ寂しさを感じるだけの人間性をのこしていることに、なによりも幸福を感じる。

天狗は記憶の中に生きる。人間は肉の中に生きる。どちらも姿見せ、時に消え、あなたの中に繰り返し生きる。それで僕は満足する。天狗になったり、ならなかったりして端境に生きる。空、飛び歩くとき、地べた這うとき、公平に自由に生きる。僕は幸福を愛する。自由を愛する。つまり、現実を愛しているのだ。