萌えるんですけど

何って半蔵門線の車内アナウンス。

中でも「お乗り換えください」の声。なんだかえらいことになっております。やったら嬉しそうなんですよ、これが。
抑え切らない喜びが滲み出ている感じ。萌えます。はあはあ。
つってそれだけじゃなんだかよく解りませんね。
では、例えてみましょう。

あなたはお屋敷の御曹司。身分に捕われるのが嫌で屋敷を飛び出し今や貧乏暮らしです。小さい会社で安い給料、月も15日を過ぎるともやしをよく食べます。
東京に出て来て知り合った恋人は、健康だけれどやっぱり貧乏で、いつかハーゲンダッツをお腹一杯に食べるのが夢だって言いながら宝くじをいつも1500円だけ買います。電車でふた駅のところへ、両親と弟と住んでいます。
ときおりは電車に乗って二人でどこかへ出掛ける、貧しいけれど幸福な生活でした。

そんなあなたの前に、屋敷から一人の若い女性がやってきます。彼女は、あなたの父上が倒れたことを告げ、屋敷に戻ってくれるよう頼み込みますがあなたは聞きません。それどころかかなり冷たくあしらいました。彼女は屋敷のメイドで、その滅私奉公ぶりが気に食わなかったのです。どうして金なんかのために他人に尽くせるのか、さして年も変わらぬ雇い主の息子に、まるで主人に対するような丁寧な物腰にも腹が立ちました。
あんな家は大嫌いだ、親父は死ねばいい、絶対に帰らないと告げると、メイドは無理に笑おうとするような、複雑な表情を見せました。

次の日から、メイドは近所にアパートを借りたようでした。一緒でなければお屋敷に帰れません、というのは、決意ではなく、文字通りの意味だったのかも知れません。メイドを捕まえて問い詰めると、せめて日々の無事を見守るようにといいつかっていますから、などと言うのです。おまえ自分の意思はないのか、とあなたは彼女に声を荒らげました。あなたはかつて屋敷で、金を前にして変わってしまう人を何人も見てきました。誰かの言いなりじゃなくて自分の生きたいように生きろよ、お前は人形か、とあなたは彼女を責めました。
やはりメイドはあの、無理矢理に笑うように、薄幸そうに、眉を八の字にしてあなたを見るだけでした。

数ヵ月が経ちました。あなたは不意に恋人から別れを告げられます。彼女は泣きながら、お見合いするの、と言いました。相手はあなたの知らないお金持ちの人よ、と彼女はひどく辛そうにくちびるを歪ませました。

数日後の晩、メイドがあなたの部屋へやってきました。真っ青な顔でした。私は存じませんでした。口を開くなり彼女は言いました。聞けば、恋人の見合いは屋敷の人間が仕組んだことだということでした。見合いの相手は、友人ではないけれどあなたも知っている相手で、思いやりのある気のいい青年でした。彼ならきっと恋人を幸福にしてくれるはずです。少なくとも、貧困にある自分よりは。
それはメッセージでした。貧困がお前からさまざまのものを奪うという、あからさまなメッセージでした。

こんなやり方は。私は、こんな。二度言いかけてメイドが二度口をつぐみました。彼女はひどく苦悩しているようでした。立ち尽くす彼女を前に、あなたは考えた末に結論を出しました。

屋敷にはやっぱり戻らないよ。あなたは確かにそう言いました。
ぼくはね、やっぱりこういうやり方を許せない。世界にはお金より確かな幸福があるって思うんだ。
二人は黙りました。メイドは相変わらず血の気の失せた顔をしていました。
でも、彼女はどうなんだろう?恋人は?どうだったんだろう?
知らずのうちにあなたは呟いていました。彼女もお金が大事だったんだろうか。

最後のあなたの呟きを、メイドは随分考えこんで聞いたようでした。

さらにしばらくが経った日曜日のことです。あなたはメイドとふたり、電車に乗って出掛けました。

唐突にメイドが呟きました。自分の生きたいように生きろよ。乱暴な口調に驚いてあなたが見ると、メイドは淡く微笑みました。
自分の生きたいように生きろよ。私にそういってくだすったのはあなたで二人目です。彼女は一人目の名前をあげました。それはあなたの父親の名前でした。
私は、ご子息とまた暮らしたいという当主の望みを叶えて差し上げとうございます。だけども。だけれども。メイドは言葉を切りました。
あなたも、あなたの恋人も、好きなように生きるべきなのですね。
あなたは、文字通り電撃が走ったように彼女の顔を見ました。そうなのです。あなたの恋人は、あなたが屋敷に、裕福な生活に戻れるように身を引いていたのです。メイドは静か佇んでいました。決意を込めた表情でした。
あなたの頭の中にある雲が、一瞬で晴れたようでした。あなたは背筋を延ばし、メイドに話し掛けました。

ぼくは、あの人が好きだ。

あなたの瞼に恋人の姿が浮かびました。メイドは一瞬、驚いた表情になり、それから力強く頷きました。

ええ、ええ、存じておりますとも。

あなたは、自分の言葉が自分に力をくれるのを感じます。

あの人も、まだ僕のことを好きなんだね?
ええ、もちろんです、決まっているじゃありませんか。

メイドがまっすぐにあなたの目を見つめます。あなたは予感のような、ぞくぞくするような感覚の中、さらに言葉を続けるのです。あなたは正しいものを見つけたのです。しぼんでいた風船に息を吹き込むように、あなたの中に勇気と喜びが湧いてくるのです。

彼女のお見合いは、今日だったね?
はい。
彼女のお見合いの場所を、知っているね?
はい。
ぼくはそこへ行くよ。
はい。

メイドもまた、冷静に返事をしていますが、嬉しくてたまらないようでした。語尾が跳ねるように弾むのです。
彼女もまた、正しいものを見つけたのです。主従を誓った当主の子は、正しい魂を受け継いでいたのです。

麹町だったね?

問い掛けるあなた。喜びを込めて息を弾ませ、メイドは答えました。
「この駅でお乗り換えください」

……はいっ、どうよ。こんな感じ。例えてみるならばアナウンスの声はこの瞬間のメイドさんの感じ。
朝晩、行き帰りに萌えてます。ああ、なんてドラマチックな車内アナウンスなんだろう。
でも半蔵門線は東急直通の路線なので、東急の列車がくるとだいなしです。