信じるもの。信じるべきもの。

今年の漢字は「命」だそうです。さもありなん。
一昔前は「何故殺してはいけないのか」つって頭悩ませて、今は「何故死んではいけないのか」であります。
なんだか感慨深いですね。とかく人間は小利口になって、疑うべきものと疑ってはならないものの区別が曖昧になっているように思います。
というのも信じるべきものの話。生きる上で信じるべきものの話です。
先日、生きる上で唯一「数式」を信じるのです、と主張したところ、怪訝な顔をされました。僕は1+1=2であることが、不変であることを信じると言ったら、生きる上では1+1が3や4になることだってあるよ、と諭されました。いいたいことはわかるけれど、しかし、そういうことではないのです。それは、二つの1を「足して」はいないのです。「足した」場合は2になることを信じるのです。
すべてのことがなるようになる、そして言い方を変えればなるようにしかならない。この二つを信じることは随分重要なことに思います。ことに直面し、予測するうえで、信じるものがあるのとないのとでは随分違います。
こうなって欲しい、こうあるべきだ、というのではなく、こうなるだろう、ということこそが現実に直面する上では重要なように思うのです。それに従うべきだ、とは言いません。これはあくまでも生きるうえで信じるべきものです。詭弁のようですが、「その結果が導き出されてしまう」ことを信じればこそ、その上でそれを否定することも可能だと思います。このまま行けば望ましくない結果になることを信じられるからこそ、そうならないように行動できるのではないかと思います。

考えるゆえに我あり、というのは有名な台詞ですが、同じように「自分が生きていることを疑ってはならない」というものもあります。いや、それは今僕が作ったんですが、そうなのです。自分が生きていることを疑ってはならないのです。百歩譲って疑っても良しとしましょう。もしかしたら僕は今、幽霊になってしまっているのではないかと疑うことを良しとしましょう。でも、それでも、あなたが生まれた瞬間、その瞬間には確かに生命であったことを疑ってはならないのです。かつて生命であった瞬間を持っていたことを認めなくてはなりません。
そして生命ならば、生命である必要条件を満たさなければならないのです。それは、「いずれ死ぬこと」と「増えてゆくこと」です。生命は個々を見る前に、種として「増えてゆくこと」がその条件であります。ならば、自らその条件を否定するのは単なるイレギュラーでしかないと思うのです。遺伝子の多様性を失うため、人を殺してはならない。同じ理由で自分も死んではならない。数式で言えば、イコールを勝手に消してはならない。そういうことではないかと思います。

なにかまとまらないのでこの項、後日。もう遅いので今日は寝ます。ひー。