ご無沙汰しております。この度携帯変えました。707SC?。いまだ手に馴染まずですが薄ういのがハラショーです。あと3Gはやい気がする。

さて今日はフリーペーパー『ゲド戦記を読む』のお話。
中沢新一氏が現代社会の有り様に対する回答として、ゲド戦記という物語が提示されているという読み解き方をしていたことについてです。
別に異論はないのですが、自分のそれとは違うように思いました。僕は、自分の物語を「納得させる」ために書いています。
僕にとってこの世界は、最大公約数的な価値基準で定められた「正方向」に向かって動くことを幸福と定められているように見えます。
それは勝ち組負け組に例を取らずとも乱暴な二元論です。「粋」を定義付けること自体が野暮なのに、粋でないものを蔑むようないびつさを感じます。
そんな世界において、皆の価値基準に乗っておらず、人々の指す「幸福」から離れた場所にある登場人物が、『それでもわたしは幸福である』、と心から納得できるように僕は小説を書くのです。
自分でもへんだと思うのですが、そこに、世界は間違っているだとか変化すべきだとか、そんなことを考える余地がないのです。
世界はそのようなもので構わない、と思うのです。残酷で、理不尽で、こちらを一方的な価値観の奴隷にしようとする「流れ」で構わないと思うのです。古来より世界は、「そうしたもの」として一貫しています。
世界を変えようとする努力のほとんどが、ただ世界の力の向かうベクトルを変化させる努力でした。
しかし、幾らベクトルが変化したところで、取り残される人間は必ず出て来るのです。ならば世界がどのように変わっても、胸を張って幸福でいられるように、僕ら自身が変わってゆくしかないように思います。
僕が小説を書くのは、絶望の淵にあるたくさんの「わたし」達が胸を張るためです。
同じように、ゲド戦記において、時を追うごとにゲドがどんどんアレな感じになってゆくのは、「持っている」ことが持て囃される世界で、「持ち続けない」人が幸福になる道を模索しているのではないかと思うのです。
現在、僕は、今までとは違う状況に置かれて、いまだに混乱しています。世界の外にいた頃なら簡単に見通せたことが、力の流れの中ではなかなか見通せません。再び動き出すには今暫く時間がかかりそうです。