彼女の生い立ち。

彼女の家は八百屋だ。ただの八百屋ではない。無農薬の八百屋だ。もしかしたら八百屋というよりエコショップと言った方がいいのかもしれない。ヘンプのバッグだとか、減塩の醤油だとか、天然酵母のパンだとか、とにかく身体に悪くなさそうなものがたくさん置いてある。
彼女に父親はいない。いや、本当はいる。だが、彼女の父親は八百屋ではなく、遠く名古屋でタクシー運転手をしている。彼女はそのことを知らない。彼女の母親が知らせていないからだ。
彼女の母親は、彼女と彼女の姉を女一人で育て上げた。彼女たちが小さい頃は保険の外交員だとか、デザインの仕事だとか、そういった仕事をしていたが、ちょうど彼女が中学生に上がったとき、彼女の祖父母からこの八百屋を継いだ。
彼女の母は、別れた夫を憎んでいた。フェミニズムというものが丁度世間に認知された頃、ウーマンリブという思想に少し浸りすぎたのが離婚の原因かもしれなかった。とにかく彼女は「女のくせに」と思われることを過度に憎んだ。
彼女の母親は娘たちに、化粧をさせなかった。制服以外のスカートを履かせなかった。勿論、鞄や靴も買い与えなかった。勿論、化粧品を買ってくると捨てるだの、スカートを切り刻むといった嫌がらせをするわけではなかった。ただ、町で見かける「おんなおんな」している女たちを見る視線や、呟くような独り言が彼女たち姉妹をそうさせたのだ。彼女たち姉妹は、母親が女という性へ向ける憎しみを、幼い頃からなんとなく肌で理解していたのだ。彼女は髪を、肩にかかるまで伸ばしたことがない。姉だってそうだ。
それでも彼女は母親が好きだった。彼女はこの八百屋もほんとうに好きだった。
自分を育ててくれた母親だ。たった一人の母親だ。自分たち母娘は、ずっとこの八百屋で暮らしていくんだろうと思っていた。小さい頃から手伝ってきた店だ。野菜の見分け方も、おいしい料理の仕方も、栄養素だって知っている。なんだって出来る。これでいい。そういうものだ。と彼女は思っていた。

去年、姉が結婚した。
突然のことだった。彼女は十九、姉は二十二になっていた。姉の結婚相手は普通の会社員だった。結婚することにしたの、家を出ようと思うの、と食卓で姉が告げると、母はびっくりして茶碗を落とした。ぱかん、と割れた茶碗から白米が丸い底の形で覗いていた。どうして、と呟いた母の声は掠れていた。彼女も、同じようにびっくりして姉を見た。
母は最後まで、どんな人なの、とは聞かなかった。姉が決めた相手なら構わない、と口では言ったが、落胆しているのが彼女にはわかった。彼女と、彼女の姉と、彼女の母だけの、幸福な世界に亀裂が入ってしまったのだ。
結婚式の日、艶やかに化粧をしてウェディングドレスを着た姉の姿は本当に美しかった。彼女は少し、眩しすぎるものを見てしまったような気がした。姉がどこか、遠くに行ってしまったような気がしていた。
式場の控え室で二人きりになったとき、姉は彼女に言った。
「母さんのことは大好きよ。でも、わたしはお化粧もしたいし、きれいな服も着てみたかった。ねえ、ハルカ、わたしたちの人生は、最後はわたしたちの人生なのよ」
姉は彼女にリップスティックを握らせた。化粧品というには、あんまりにもかわいらしい
、細いデザインのリップだった。
「お母さんに隠れて、わたし時々お化粧してた。だって、会社に入れば、そんな」
「おねえちゃん」
「ハルカ、ハルカも自分のしたいことをしていいのよ」
彼女は、姉の目に、少しだけ涙が浮かぶのを見た。
「ハルカ、ねえハルカ、わたしはお母さんを裏切ってしまったのかな」
「そんなことないよ」
彼女は精一杯、それだけを言った。彼女の姉は、母とは違う。男という性を拒絶しない生き方を選んだ。彼女の母は、結婚式を終えた晩「あの子の人生だもんねえ」と呟いた。彼女の母は、娘の幸福を祈り、祝福していたが、同時に心のどこかで落胆してもいた。彼女はそれを敏感に感じ取っていた。

彼女は大学に通っていた。
家の手伝いをする傍ら、時折スーパーマーケットで青果売り場の売り子をしている。姉が家を出てから、母は本当に彼女に頼るようになっていた。いつか自分がこの八百屋を継ぐのだ。母と同じように、毎日新鮮で安全な野菜を売って、時々パンを焼いて、そうして母と二人で暮らしてゆくのだ。彼女はそう考えていた。それでいいと思っていた。お姉ちゃんは結婚をしたけれど、わたしにはたぶん、そういうことをすることはないだろう。母以外の誰かを選ぶことなんて、たぶん、ないんじゃないだろうか。彼女はそんなことを思っていた。お母さんにはもう、わたししかいない。わたしは母を捨てるわけには行かない。彼女の心は揺らがなかった。
揺らがなかったのだ。

しかし、不意に好きな人が出来た。
スーパーでアルバイトしている同僚だ。やっぱり大学生で、一人暮らしで苦しい生活をしているそうだ。困窮を見かねて野菜やパンを差し入れてやったことから、いつしか気安く話をするようになった。女の人は苦手なんだけど、君はなんだか話しやすいよ、と彼は笑った。それは、わたしが「おんなおんな」していないからなのかもしれない。他愛のない雑談をしながら、彼女はそんなことを考えた。それでいい、と思っていたけれども彼女は心のどこかが痛いのを感じていた。
結婚式で渡されたリップを、指でもてあそびながら彼のことを考えた。夕飯後の自室である。お化粧をしていったら、彼はなんて言うだろう。気付いてくれるだろうか。似合わないと笑われたらどうしよう。
悩みながら彼女はこっそりリップを塗ってみた。薄い色だった。ああ、これなら。彼女は鏡を見て何度か微笑み、そしてリップを丁寧に拭った。化粧をしているところを母に見られてはならない、と思ったのだ。母にはわたししかいない。それが彼女の心を少しだけ締め付けた。

初めてリップを塗って行った日に彼は、なんだかいつもと感じが違うね、と気付いてくれた。わたしを見る目が少し違うような気がする。そんな、微かな事柄が彼女の世界に色をつけたような気がする。些細なことが世界を変えるのだ。
しかし、母に隠れて化粧をするというのは、やはり心が痛んだ。リップを塗るだけでも、どこか、育ててくれた母を裏切ってしまっているような気になるときがある。堂々と、お化粧をして家から出かけないのは、なんだか本当に後ろめたい。

しかし、いつかお母さんもわかってくれる、と彼女は思う。そのときまで彼女は待とうと思う。だから、彼女は今日もこっそりお化粧をする。大学へ向かう電車の中、キャンパスから向かうアルバイト先へのバスの中、アルバイトが終われば家に帰るまでに落としてしまう、ほんの少しのお化粧だ。
写る地下鉄の窓に目を向け、彼女は今日も淡いリップを塗るのだ。