絡まれ納め。

コミケの忘年会に出かける。の巻。
今日はなんかひたすら家事とか荷物待ったりとかしてたら出られるのは午後。コミケに遊びに行く気力というのがちょっと低下してました。会いたいと思う人がたくさんいたのだけれど、気楽に足を踏み入れる気持ちではなくて。どうにも。

気心の知れた人とお酒だけでも、と思って打ち上げだけ参加してみましたらば、まあ。
皆お酒の癖が悪くなりましたね、と思わずぐったりしてしまうような結果に終わりました。すこし残念でした。

意見が違う以上、人と人が衝突するのは仕方ない、と思うんですが、友人関係の中で起きるってのはただの衝突とはちょっと違う衝突であってほしい、と思うんですね。
違うから友達でいられると思うんです。完全に自分と同じ考えの人と付き合っても面白くもなんともないし、合うのは意見とか政治的スタンスとかではなくて、もっと別のものなんじゃないでしょうか。
友人関係というのは隣どうしに生えてる木みたいなものでいいんじゃないかと思うんです。
常にそばに感じなきゃならないものでもないし、一緒に伸びてく必要もないと思うんです。干渉したりされたりに見えることもあるけれど、結局のところ関係はそんな枝葉で決まるものじゃなくて、ただ「あるだけ」が一番いいと思うのよね。

この晩にちょっとあって、フェアネス、公平性というものについて考えてました。まあ、きっかけはこの晩の出来事だけに限ったものではないのだけれど、とりあえず。

物理的な関係を貸し借りなしの状態に戻すことだけが唯一のフェアネスではないと考えるんです。
もしそれを唯一のフェアネスと仮定すると、常に貸し借りなしの状態から始まる人間関係においては、「行動しない」のが唯一のフェアネスなんて馬鹿馬鹿しい話になってしまうからです。
だったら、と僕は思うのです。
「わたしは好きなようにする。あなたも好きなようにせよ」
これだけが厳密なフェアネスじゃないだろうか。そう思うのです。
僕が利他的な行動をとるときは「わたしが与えたいから」しているのです。僕が耐えるときは「わたしが耐えたいから」するのです。決して外因に左右されてやっているわけではないのです。まさに興味がなければディズニーランドに誘われても行かない会、なのだと思うのです。

だから価値観がぶつかれば殺し合えばいいし、自分の価値観よりも相手との関係性が大事だと思えたなら相手と折り合いをつけて変容するのもいいでしょう。しかし重要なのは、自分が大事にしている世界のすべてが「自分にとってしか重要でない」ということをきちんと理解することではないかと思うのです。
相手の大事と自分の大事が合致するのはファンタジーです。だからこそ、稀に起こりうるファンタジーの実現を体感したり目撃したりして僕らは感激するんだと思います。
ファンタジーの実現が当然だと思い始めてしまうと、色々なものが歪んでいくんだろうなあ、と思います。

とりあえずちょっと脱線しましたが、年をとるとお酒癖が悪くなるようなので、みなさま飲酒はほどほどに。