悩む。いや、悩まない。わたしはただ祈る。あるいは欲求する。

友人が神経をやられて失調している。原因は知らない。たぶん当人にもわからないことと思う。
僕に、直接的にできることはない。あるかも知れないが思い付かない。

出来るのは、こうして遠くからちょっとしたエントリーをあげることくらいであり、何かの拍子にここを覗いた彼女が、あら、何かまわりくどいこと言ってるわね、とかなんとか思って笑ってくれることを祈るばかりである。ふふんと鼻で笑うような、そんな軽い笑いでいい。

人生は物語である。そんでもって物語にはいろんな形がある。と、思う。
それを最初に思ったのは高校の頃だ。エヴァンゲリオンがものすごい流行っていた。といってもまだ初回放送。今みたいな大ブームではなかったけれど、それでも流行っていた。
その頃の僕はといえば、社会的に表現してまさしく非社会的な生活をしていた。高校には在籍していたけれど、自分の好きな時に高校を休んだ。大体毎週一度か二度。後で数えてみると不登校児童の基準欠席数に達していた記憶がある。
休んで何をしているかといえば、大したことなどない。うでうで寝ているか、ゲームでもしているか、ワープロで小説を書いていた。天気が素晴らしかったりすると散歩に出たりはしたが、基本的にあまり外には出なかった。
その頃書いていたのは、贔屓目に見ても、狭い世界の冒険小説だ。ヒーローを描こうとすると、どうしてもどこかで見たような薄っぺらい人物になった。僕の人生にも誰の人生にも1gも寄与しない、どこにでもあるつまらない万能英雄だ。思い出しても頭を抱える。まるで血が通ってなかったのだ。
僕の想像力は、思ったより大したことないな、そう気付いた。その欠点は克服出来そうになかったから、代わりのものを探した。
なかった。
逆に考えて、じゃあドラマチックな人生を送ろう、と思った。想像で書けないなら実体験で書きゃいいや、と思った。大学よりも実社会に出ようと思った。大学行かない、とか言い出したのはこの頃だ。

そんな時に、エヴァンゲリオンをみた。びっくりした。主人公の筈のシンジくんはビックリするほどグダグダだった。こんなダメな子をヒーローにしていいのか。そう思った。これじゃ、まるで日頃の僕たちじゃないか。
当時の僕は視野が狭かった。そこで気付いたのは、別に物語にヒーローはいなくていいんだ、ということであった。

不遜にも僕は、エヴァンゲリオンを見て「これは僕にも書けた筈の物語だ」と思った。足りなかったのは経験ではない。想像力でもなかった。少なくとも、経験だけはすでに十分過ぎるほど足りていたのだ。
「現実にうだうだしている僕たちだって、物語の主人公でいいんだ」ということに気付くか気付かないかが問題だったのだ。たぶん、僕がそれに自力で気付くことはなかったと思う。

逆の言い方で表すならこうだ。
「僕らの人生がすべて物語になりうるなら、僕らの人生はすべて、そのまま物語でいい」
物語に定型はない。決まりも約束事もない。敵は出てこなくたって構わないし、現れた敵を倒すも逃げるも仲間にするのも仲間になるのも自由なのだ。
主人公が怪我をしたって、具合が悪くなったって物語は続く。世界はまわる。
だがそれは「物語がわたしを待ってくれない」のではなく「わたしが立ち止まるのも物語のうち」なのだ。

今、具合を悪くしている友人に思う。
いつか体調も変わるかも知れないし、すぐに変わらないからって絶望することはないんではないかと思う。
そして痛く苦しいときに、痛い、苦しい、と悲鳴をあげるのは当たり前のことだから、特に我慢することはないと思う。
腹を痛がった後にけろっと治ってアイス食べたくなるのも罪のない話。アイス食べてまた腹痛くなるのもよくある話。
物語は、なるようになるし、なるようにしかならない。
これはキツい言葉にも聞こえるとは思うが、僕は根が不真面目なせいか、いい言葉だなあ、と思う。頑張ることを否定も肯定もしない。本当にいい言葉だなあと思う。
そう。結局のところ頑張っても頑張らなくてもいいのだ。その先は個人の好き好き。

ともあれ、今は気楽に休むといいんじゃないかと思う。もう少し好き勝手したらいいと思う。
で、また遊ぼう。