嗜み好む品なれば

普段からあまりお茶やコーヒーなどを摂取しない類の人間でありましたが、何の因果か最近はよく家でお茶を飲んでおります。
無論、茶の心など分からぬ不粋者ゆえ、風流なことは申せませんのですが、お茶を飲むと落ち着くというのが分かるようになって来ました。

つまり、こりゃ、パブロフの犬なんですね。
落ち着いた時にお茶を飲む生活を繰り返すうち、お茶を飲むことで落ち着くように回路が再構築されるような。「わたしの身体は、それを覚えていた…!」ってやつですね。
いわゆる条件付け。「素数を数える」やら「絶望すると爪を噛む」と同じカテゴリなんです。

だから肝心なのは、「お茶を切らさないようにすること」ではなく、「いつも落ち着いてお茶を飲むこと」なんです。
繰り返しが心に安定と余裕を生むんですね。

あらゆる嗜好品は本来その用途に向いています。お酒にしたら、やけ酒ばかりあおる人の酒は荒れてゆく一方だけれど、普段楽しく飲む人の酒なら多少のウサは吹き飛ばしてくれる訳です。お茶しかり、映画しかり、スイーツしかりです。
つまり、嗜好品や趣味の品というものを、自分へのご褒美や残念賞だとしたら、それを「安売りしない」というのが大事な話。

では、その考え方でタバコをみるとどうか。この問いを生み、ようやくわたくし、長年モヤモヤしていたことに解答を手に入れました。

つまり、のべつまくなしどこでもタバコを吸う人々や、愛煙家の権利を主張する人々に感じていた違和感や嫌悪感は、彼らのタバコとの付き合い方それ自体が、僕の考える「嗜好品」に対する侮辱のように感じていたからなんですね。

あ、もちろんタバコと素敵な付き合い方をしている人もいるとは思いますが、これはいわゆる「タバコが吸えないだけでうるさい」タイプの愛煙家の話です。

ともあれ。
言論の自由が規制されたとしても、本当に言葉を愛する人々は黙りませんでした。地下に潜り、詩を書いて思想を残しました。禁酒法の時代にもウイスキーは地下に隠れて残りました。戦争の時代にも、平和を愛する人は確かにいました。贅沢が禁止された時代に、裏地で遊ぶ文化が生まれました。隠れキリシタンだって地下で礼拝してたんです。
趣味ってのはそういうもんなんです。

たかだか、歩きながらタバコを吸えないとか仕事しながらタバコ吸えなくなったとかレストランや駅で禁止されたとか、まあ、その程度のことでピーチクパーチク騒ぐのは如何なものかと思うのです。抗議するならむしろ、個人栽培の解禁を求めるくらいの勢いにしていただきたい。
趣味なんでしょ?好きなんでしょ?気の合う仲間で地下で秘密裏に存分に楽しめばいいじゃない、と、思うんです。別に親の仇のように禁止されてるわけではなく、時と場所を選ぼうね、と言われているだけなんだから。

むしろそれが趣味の品であるならば、(少々乱暴な言い方ですが)むしろ規制されてなんぼのものではありますまいか。
趣味ってのは、ある程度、後ろぐらいからこそ面白いんだよ!
などと思います。
もっとも、アクティブ3次元ロリコンなど、人に迷惑をかけるのはダメだと思いますがともかく。

世の嫌煙家たちの狭量さもなかなかどうして、もう少しおおらかでもいいんじゃねえの、とも思うのですが、個人的には、自称愛煙家たちの、「喫煙する権利の侵害だ!」などと囀ずる野暮ったさの方が受け入れ難い感じです。
趣味の世界に真顔で自由だの権利だのを持ち出すなんて、正気の沙汰じゃないとおもう。
他人の行動をコントロールしようとするのは、もともとが野暮な話なので嫌煙厨がアレなのは言わずもがなです。
でも愛煙家ってのは、趣味の人なんでしょ?余裕を失ってどうするものなのか。

と。
話がズレました。
わたくしが言いたかったのは、節操なくタバコ漬けの人々がすっごく不自然に見えてしまい、ついつい、ヘルクライムピラーの底で喚くジョセフを見るリサリサ先生みたいな目で見ちゃう自分が狭量なのかなあと思ってたけど、ちゃんと理由があったんだなあ、と気付いたということです。

嬉しくても悲しくても、涙は出るし、かわりに酒を飲む人は飲むし、それはそれで全くいいと思うんだけど、何でもない時(歩いてる時やご飯待ってるときや仕事中など、あらゆる時)まで同じリアクションだとしたらちょっとアレな人だと思うってことなんです。
タバコ吸う人すべてが嫌いな訳じゃありませんが、四六時中ドカスカ吸っても充たされてない人を見ると、やはり、ちょっと頭がアレに見えてしまうという話でした。アレ。嗜好品なめとんか、と。

ケムいクサいはどうでもいいです。や、嘘か。どうでもよかないけど、趣味に対する冒涜に比べたら相当些細な問題です。
あ、この人ちゃんと趣味としてタバコ吸いたいんだって思えたら、ちょっとくらい煙たくても許せちゃうもんよ。