新しい仕事、新しい朝

仕事場が変わるといろいろ変わります。
というわけで、少し遠くなった職場に通勤を始めました。電車に乗っている時間で何をしようかなあという問題はまだ解決してませんが、割と座れる路線ですので椅子に座ってうとうとする感じ。ここできちんと眠れると色々楽な気がしますが、生活パターンに組み込んでしまうと座れなかった時に酷いのであくまでもオプションにしたいですね。

それでもってその暇な時間を使って思うのは前職のこと。仕事内容自体については、あまり嫌いではありませんでした。割と好き勝手にやれていたし、楽しかったといってもいいと思います。人が手を付けない困難なパズルを解くような、そんなよろこび。確かに楽しみがそこにはありました。
そんな、密やかな楽しみがある、それだけでは満足出来なくなった理由について思います。

賃金の多寡の問題も勿論大きかったのだけれど何よりも、「何のために働くのか」という問題が僕を動かしたのだと思います。見失ったからではなく、見つけてしまったのだと思います。会社の構造と、自分の矜恃が衝突してしまったのだ、と今では思います。
ひらたく言えば、「僕は、無自覚な悪事の片棒だけは担ぎたくねえのだ」なのです。別に前職の仕事が法に触れていたということではないのですが、こんな詩を思います。

ナチ党が共産主義を攻撃したとき、私は自分が多少不安だったが、共産主義者でなかったから何もしなかった。
ついでナチ党は社会主義者を攻撃した。私は前よりも不安だったが、社会主義者ではなかったから何もしなかった。
ついで学校が、新聞が、ユダヤ人等々が攻撃された。私はずっと不安だったが、まだ何もしなかった。
ナチ党はついに教会を攻撃した。私は牧師だったから行動した―しかし、それは遅すぎた。
マルティン・ニーメラー

自分が「当たり前だ」「仕方ない」と思っていることが果たして本当に仕方ないのか、当然の鉄槌なのか、僕は疑っていたいと思います。もっとも大事なのは不安に思わないことこそ、もっとも不安に思うべきことなのだということではないか、とも思います。思考停止こわい。上述のように、目に見えて事が動き始めたら止まるわけないんですよ。止められるわけないんです。

これは資本主義では当たり前のことなんだ、と自分に言い聞かせなければできないようなことは、同じ行為がもし「当然に行われない世界」でも自分は同じことをするのか、したいと思うのか。僕は自分に問い掛けたいと思います。

僕は欲深い人間なので、悪事を働く時にさえも、自分の意思でこの斧を振り下ろしたいと思うのです。報酬や評価だけでなく、責任や罪や堕落さえも、一切を他人に譲り渡したくはなかったのです。

つまりすごく具体的ににいうと、下請けいじめてさらに利益増やしたいなら好きにすればいいけど、下請けいじめないと利益出せないから仕方なくやってるなんて意気地のねえこと言うならそんな会社さっさと畳んで田舎でトマトでも作ろうぜ、というお話。
ま、僕はその輪から外れたのでどうでもよいのだけど。