よいスピーチ。

昨日、戦国鍋でも見ようかと思って何の気なしにつけたEテレ。
スーザン・ケインという人のスピーチがとても良かったのでついつい見てしまいました。
和訳テキストを見つけたのでメモ。
字幕の口語的な和訳と、チャーミングなスピーチがとてもよかったので、逐語訳的な文体の硬さにちょっと違和感があるけれど内容は変わらないのでご紹介。
秘密を囁くような「Just speak softly」。
Softlyって語感は、すごくsoftlyだと思いました。とてもよいです。とてもよい言葉。

実は新しい職場のボスはとっても「外交的」で、まあ、ちょっと苦労しています。なんというか、毎日ストレス耐性テストをされてるんだろうなあ、と思えば腹も立ちませんが基本的にはストレス。箸のあげ下ろしに近い小言を言われながら働いています。
自分は外交的か内向的か、どちらの向きなんだろうなあ、というようなことを考えていました。でも多分、ボスに目を付けられているということは、少なくとも外交的には見えないんでしょう。うーん。

ともあれ。
この素晴らしいスピーチは残念ながら、外交的な人々には届かないと思いながら見ていました。これはたぶん、内向的な人々をsoftlyに勇気づけるスピーチ。

ひと昔前にあったマッチョとウィンプの論争のように、マジョリティやいわゆる「勝ち組」のような、他人の話を聞かなくても不自由を感じていない人々には決して届かない声というのがあるのだと思います。
それは拒絶ですらないのだと思います。一つの価値観からすると、取り上げる必要すらない声なのです。

外交的な人々だけで世界を回せているうちは、内向的な人々の内向的な能力は必要とされません。
それは1985年生まれのスペースシャトルが21回連続の無事故衛星軌道往復を成し遂げているのなら、無理に新型を開発する必要はない、と考えるようなもの。
そこには「あえて今、うまく行っているものを変えるリスクは必要ない」という一つの強固な論拠があって、それを覆すことはとても困難です。
彼らには「必要ない」と「やってはいけない」を混同する傾向があるように思えます。もっと正確に記述するならば「必要なもの」と「それ以外」という区分しかしない傾向にあります。
それはまさにスピーチで語られたキャンプでの読書のよう。必要ないものは咎められ、「彼らにも理解出来る正当な理由」を示せるようになるまで禁止されるのです。とっても馬鹿馬鹿しい話。

僕らは「あなたを論破したいんじゃないんだけどなあ…」と悩みながらそれに立ち向かわなければなりません。古いシャトルを否定したいんではなくて、新しいシャトルを考えたいだけなのだけれど、考える自由を手に入れるためには古いシャトルを否定する論拠が求められるんです。
それは絶望的に噛み合わない会話。しばしば僕は、だったらもう話さなくていいや、と諦めてしまいます。

ただ、ひとつ聞いて欲しいのは、必要ないものは不要なものではない、ということです。それは僕の中でずっと燻っています。
世の中を二つに分けるなら、ドラゴン部の部長が言っていたとおりのことしか言えないのです。
・役に立つもの
・いつか役に立つかもしれないもの
その二つです。

もしあなたが、暗くて陰気で何を考えてるのか分からない同僚や部下を気に食わないと思っているとしたら、彼らを否定する前に、少しだけそれを思い出してあげてください。
必要なことをこなせていないなら、それは咎めてください。でも「必要ないこと」をする時間があったら「必要なこと」をしろ、というのは明らかに論理矛盾です。
僕らがあなた方の論理に則って論拠を出すとしたら、もうそれぐらいしか言えないのです。

あなたたちが世界を回しているんです。だからあなたたちが紡ぐ現実論は絶望的に正しい。
だけど、「聞く必要のない声」なんていうのは世の中にはひとつもないんです。ただあまりにsoftlyで、聞こえない声があるだけ。