生き疲れた君への手紙

正直、僕は相手が君だからというわけではなく、この手紙を書いている。
君の事情はわからないし、僕が君のように生き疲れてしまう未来も、ありえないとは言えない。もっとも、今の僕自身は幸運不運を差し引きして、幸運の方が多い生活をしていると思う。
だから本来、こういうことは言うべきではないんだろうが、その、なんだ。

僕は別に君をバカにはしていない。憐れんでもいないし、ああはなりたくねえなあ、とも思っていない。
だから、当たり前だけど、同情もしていない。

僕は、君がおっ始めない限り、君の経歴をほじくり返さない。君がおっ始めない限り、君が信じているもの、信じたいもの、すがっているものを否定しない。
おっ始める、というのはつまり、君が「これが正しい」だとか「こうあるべきだ」だのと、他人を矯正するようなことを演説し始めるってことだ。
誰だって何かを信じるのは勝手だが、それを信じてない他人を否定する時は、衝突するのを覚悟しなきゃダメだよなと僕は考えている。生き疲れてるときに、そんな衝突でさらに疲れるのは少しリスキーだよな、とも思う。
だから僕はなるべく口に出さない。

僕は、勝利条件が見えなかったり、全滅だけを勝利条件に取る衝突を好まない。勝てるか勝てないかは気にしない。こいつの信念は粉砕できる、と思っても好きでないので、身を守るためでない限り手を出そうとは思わない。
つまり、僕はそのロジックがどれだけ勝手だったり稚拙だったりしても「自分で自分のことだけを語る」限り、とくに否定したりしない。
俺はこういう風に考えているんだ、と語る君を相手にして、それを僕が無条件に肯定することはないだろう。だが僕は「君は間違っている」とは言わない。「そこに整合性あんのか」とは言うかも知れない。「僕の考え方とは違う」とは言うかも知れない。
だが、僕は別に君を否定しない。「だって仕方ないじゃないか」と言われれば、そこで話は終わりだ。
僕は僕の知りたいことだけを質問し、僕の言いたいことだけを言う。

おお、おお。おかしなものだね。僕は、君への手紙なのに自分の話しかしていない。
しかし、そういうものではないかと思う。
僕は僕のことを話す。
君はそれを眺めて、こいつ相手になら話が出来そうか、それともそうじゃないかを判断する。
話せそうだと思ったら話すだろうし、コイツだめだ、と思ったらそっと手紙を閉じる。それでいいと思う。

僕は門を開く。
殴るにせよ撫でるにせよ繋ぐにせよ、僕の顔を見ながら伸ばされた手を無視しない。どんなアプローチにも、きっと僕の流儀で返事をする。
僕が言えるのはこれくらいだ。そして、たぶんそれは、君の状況が今より悪くなっても、または素晴らしくよい方向へ変わっても、たいして変わらないことと思う。