かかと鳴らしながら

こんにちは。
何か書こう書こうと思いながら時間ばかりが経ってしまっていました。
ほとんど私信ですので、折りたたんでおきます。トラバしないのは引っ込み思案的なアレですスミマセン。

僕のようなアレが有用なことを言えそうな気はしないのですが、思い切って少し書こうかと思います。気に障ったらごめんなさい。

まずは、苦難の数年が幾らかでも報われたことに祝福を申し上げます。。ひとつの誠実と出会うことは、千の裏切りに遭うことより稀だと思いますれば、ただただ、「聞いてたのと違うね」と思ってくれる人と出会えたことを祝福するものであります。
これまでの不遇を帳消しにするものではないでしょうし、喜びと憎しみは対消滅しないものでありますから当人様にとっては複雑ではあると思いますれども、わたくしは祝福とともに少し羨むものであります。

そして人を愛すること、人を恨むこと、人を悼むこと、それでも生きてゆくということについて少し考えています。

僕は先日、人の親になりました。
ついでに、ほぼ同時期、人の悪意にぶつかって職を失うというやつも経験し、なんやかやと慌ただしい日々を生きています。今は主に領都グラン・ソレン周辺の冒険や就職活動程度ですけれども。
ともあれ。
そんな日々の中、けっこう時間を使いましたが、人を愛するということについて、ひとつの結論のようなものを感じています。それは、愛すべき対象が僕に対して何らかの働きかけをした結果、愛が生み出されるのではない、ということです。

おそらく、僕だけでなく誰の中にも最初から愛は存在し、ただそれを適切に向かわせる対象の選定に四苦八苦しているということなのだと思います。
人によっては偶像に愛を注ぎ、人によっては自己に、家族に、友人に注ぎます。運のよい人は好きだなあと思える他人に。さらに運のよい人はそれを双方向な流れとして手に入れることができます。
愛は、雪解け水で作られた運河のようなもので、水の流れるように流れを作り、溢れた愛はどこかへ向かい、その先で染み込んでゆくべきものだと思います。
そして、なんらかの理由で愛の流れが阻害される時、人の心には色々なことが起きるのではないかと思います。
たとえば、ただの愛なのに「友情」だの「恋慕」だのといった余計な色をつけられてしまうとか。愛してもいないのに、愛しているような振る舞いをしなければならないだとか。

すっごく身も蓋もない言い方をすると、愛のはけ口がないと人はおかしくなる、ということです。
適切に愛せる相手を見つけられない時、お構いなしに生成される愛は内圧を高め、時に爆発してしまうということです。それは、本当に川の氾濫のように。それは破裂する水風船のように。

愛した人を喪う、ということは、言ってみれば川が堰き止められたようなものだと思います。僕などは子の寝顔を見ながら、配偶者のいびきを聴きながら、いつか訪れるその時を考えただけで今すぐ消えてしまいたいような気分になります。この川の水源を止めるにはそうするしかない、と本能的に感じるのです。そうしないと、氾濫はどこまでを水浸しにして、どれだけのものを押し流して恥じないのか、とおそろしく思うのです。

人を恨むということも、たぶん近いことだと感じます。人と触れ合う人ほど、殺し合いのようなキャッチボールをして生きています。きちんと受け止めないと大怪我をするだけでなく、きちんと投げないと腕がズタズタになるキャッチボールです。それは愛のひとつの形態で、赤熱した鉄球を放りあっているのです。
誠実に付き合えない相手、相互的に話し合えない相手、そんな相手に囲まれて生きると、それだけで僕たちの手は火傷で爛れてしまいます。
誰にもボールを投げられない状況というのは、強いて言えば周囲を恨むしかありません。どうしてお前は自分の鉄球だけを投げつけてくるのか。なぜ人の手が爛れてゆくのを、にやにや見て笑っているのか。
多分それは悪意ですらなく、ただ、そもそもの熱量がない人なのです。その人の鉄球は別に赤熱するほどではありません。フローしている愛の絶対量が少ないから、人と熱交換したり、放熱しなくても平気なだけなのです。彼ら、彼女らは、人が火傷で苦しむ姿を見ても、さほどの憐憫も同情もしません。ましてや、なぜ人が自ら起こす熱で火傷なんかするのか理解できてない場合だってあるのだと思います。

勢いあまって、自分の話になりました。僕はいつだってこんな調子で、人に何か言おうとすればするほど、自分のことばかり喋ってしまうので少し嫌になります。

僕が言いたかったのは、人を憎む気持ちや、人を悼む気持ち、人を愛する気持ちは全て根元のところで同じもので、自分の中の、愛の流れが乱れている以上、しかたのないことなのではありますまいか。自分がおかしくなってしまうことを恐れなくともよいのではありませんか、ということなのです。
生きてゆくというのは、人間が食べて出すクダのような生き物であることからも明らかなように、取り入れて放出してゆくことなのだと思います。
愛すべき人がなくなってしまったことで、向かう先を喪った愛が出口を無くし、必要以上に内圧を高めてしまっているのであれば、少しゆっくりしたらいかがでしょうかと、僕は少し思います。
そういうんじゃないヨ!という場合には完全に余計なお世話ですけども。

それでも僕はこれを書き残しておこうと思います。zidrakさんのことを心配してる人リストは、zidrakさんが知ってるのより少なくとも一人だけは多いですよ、ということを伝えるために。僕の中にある愛の、適切な振り分け先をきちんと定義するために。