音楽と人生

world lineは名盤。
そりゃたくさんカバーされるわい、みたいな感じですがともあれ最近のわたくし。

前の職場でのつまらない出来事が少しずつ溶けて行っているような気がします。別に許すわけじゃないし、五段階あるうちの「誰かいるところで溺れてても石を投げる」のレベルではありますが平静。
思うに、忘れるというか心からshift + deleteするのが健康上一番良いのよね。やってしまへ、やってしまへ、びしゃびしゃにしてしまへ、代わりにリズムとピアノと歌声で埋めてしまへ。

ちなみに僕は、自分がどのくらいその人を嫌いなのか自覚していなかったせいでたいへん嫌な思いをした過去の経験から、人を嫌いになる段階をかなり細かく設けています。
僕はあまり頭の回転が早い方ではないので、個別のアクシデントに即してリアクションを取るのがたいへん苦手です。
解決策として編み出したのは、予めモデルケースを設定して対応を定めておき、出会った状況をモデルケースに当てはめてゆくというメソッド。お役所仕事のエクスキューションです。復讐も害虫駆除も正義執行も、銃を構えてから悩むくらいなら、最初からやらなきゃいいんです。悩まずこなすなら、お役所仕事でちょうどいいんです。
そんな気持ちで設定した嫌いレベル。状況は崖と沼で設定してます。嫌いレベルの低い方から順に以下の通り。

  • 誰もいないところで溺れてても助ける
  • 誰かいるところで溺れてたら助ける
    • 僕が一般にいう嫌い、はこの辺のカテゴリです。殺さずにいられるなら赦せるはず、というのが信条です。逆にいうとそれほど憎んだりしてないという。この二つのカテゴリから逸脱しない範囲の「嫌い」の違いがあるって認識することは、けっこう心の平穏に寄与すると思うの。
  • 誰もいないところで溺れてたら助けない
  • 誰かいるところで溺れてても助けない
    • このへんは消極的な殺意と言えなくもないけど、これも同様に以降のレベルまで行っていないことを自覚するためにはすごく必要。
  • 誰もいないところで溺れてたら石を投げる
  • 誰かいるところで溺れてても石を投げる
  • 誰もいないところで溺れてたら浮き輪を投げてから沈むまで石を投げる
  • 誰かいるところで溺れてても浮き輪を投げてから沈むまで石を投げる
    • 割と強いヘイトがありますね。細かく分けているのは、この先へ進むハードルが凄く高いせいです。僕の倫理観では、結果の全責任を負うかどうかはけっこう大きいみたい。人の人生の軌道を90度以上の角度で捻じ曲げるのはなるべく避けてます。つっても89度までの干渉は許容してるので、詭弁と言えなくもないけど。
  • 誰も見てなかったら突き落とす
    • 明確な敵対心レベル。いわゆる積極的な殺意。
  • 誰か見てても突き落とす
    • スパイ小説でいうところのいわゆるバーン ノーティス アンド シュート オン サイト。これ以上のレベルは役満が幾つ重なるかを考えるようなものなので割愛です。

基本的に、衆目の有無をブレーキに設定しないというのが正しい生き方だとは思うのですが、オープンワールド系のゲームにありがちな「誰にも見られなければ手配度上がらない」もしくは「見られても目撃者全員アレすればOK」というルールを一度体験すると、けっこう抑止力というか試金石になるなとは思いますね。指名手配されるけど今やろうすぐやろう、と決意する時のコントローラの軽やかさ。自分の審美眼への信頼感。確信犯という言葉はこのために存在するのだ。的な。

現実世界でもそれは同じことです。明確なペナルティを負ってもやりたい行為なのかどうか。「リスクが無ければやるけど」といった薄い欲望に関しては、あえて実行しないのが花かなとも思ってます。
どんな生き方だって、火傷しそうだから面白いんじゃんね。