感情論

僕には、怒りが欠けていると感じることが多い。

子供の時分から、「皆やってるからやりなさい」「そういうものだからやりなさい」と言われるのが嫌いだった。それはなぜ?と僕は問い続け、答えられない大人は僕のことを「屁理屈を捏ねて、指示を拒否しようとしている」と評して怒った。別に、何が何でもやりたくないんじゃないんだけど、と僕は思っていた。

僕はただ、理由が知りたいだけだった。僕を動かすことができるのは僕だけだということを、本能的に知っていたのかもしれない。
外刺激に対して、思考・判断して、行動に移るのが自然なプロセスだ。思考と判断を他所に委ねてしまうのはあまり健全とは言えない。判断を人に任せて、失敗するのも嫌だったし、後悔するのも責任を被るのも嫌だった。

時が流れ、僕も大人になった。相変わらず理由のわからない事はしたくないと感じるが、理由さえはっきりしていれば、ある程度は理不尽な事でも受け容れられる。子供の頃とあまり変わっていないとも思う。
変わったのは「なぜ?」と問う事が減ったということだ。なぜ?と考え続けたお陰で、その場で問わなくても、ある程度の事は推測できるようになった。理に合わない事でも「この人は××を恐れているので過剰反応としてこんなメチャクチャを強いるのだろう」などと、それらしい「理由」を見つける事ができるようになった。
理由さえ手にしてしまえば僕は動く事が出来る。自分の中の規範と照らし合わせて、受諾も拒否もできるし、ことによっては殺し合いだって出来る。

でも、やはり、理由に推測がつかないとダメだ。受諾できないだけじゃなくて、拒否も出来ない。外刺激が曖昧すぎる時、僕は行動を起こせない。無視しているのではなく、閾値に達しないだけなのだと思う。

僕はほとんど腹を立てない。閾値に達すればただ判断して、受け容れるか拒否するかを決めるだけだ。腹を立てるという余地がない。
面倒だと思えば、二度と同じ事を持ち込まれないように措置を講ずるだろうが、それは決して怒りではない。

だからこそ、純粋な怒りというものを尊重する。不意の怒りに突き動かされ、勝ち目の薄い戦いを挑んでしまう男に敬意を払う。怒りに身を任せ、平手打ちをお見舞いする女に憧れる。
自分が損をする選択肢を掴む、という行為に魅力をおぼえるのは、おそらくは怒りと縁遠い生き方をしているからだろうと思う。