うーん

アスペってひとまとめにしない話
なんでもそうなんだけど、こういう風に、物語と人間が結びつかないと、どうしても健全な社会活動って出来ないような気がします。人は物語で結びつかないと、人を人と思うことができないんですね。
「上司」「下請け業者」「いじめっ子」「コンビニの店員」、カテゴライズされて、記号になってしまった相手を「泣いたり笑ったりする血の通った個人」にまで格上げするのは本当に難しいこと。
僕は、この話、作り話だろうと実話だろうと、いい話だと思います。
少なくとも、これを書いた人は、「将来で会うかも知れない誰か」を病名というレッテルで判断するのをやめようって思ったわけでしょ。そういう人が増えるのすは、ま、悪いことではないですよね。

他人を単一の側面だけで見るのって、考えなくても感じなくても済むから、とても楽なんです。
仕事の関係だけの人、ジムで会うだけの人、飲み屋で見かけるだけの人、と、それぞれの役割を越えない範疇であれば付き合い方はとても楽。
極論すれば、その付き合い方をする限り相手もこちらも、ひとつの舞台装置のようなもので、役割に沿って役割をこなすだけなんです。相手の顔を覚えなくても足りる話。反射で動いて、マニュアルで受け答えすればそれだけでイベントは完了します。まるで、中国語の部屋みたいな話ですよね。
相手の苦労を想像もせずに繰り出す定型文「御心痛、お察しいたします」。みたいな話。

アスペルガー症候群というのは「理解できない」のではなく、「理解したふり」と「理解」を厳密に区別してしまう病気なんではないかと思います。
僕らは、日常を円滑に進めるため、理解したような気になることがとても多く、無意識のうちに理解したふりをすることさえあります。ほとんどの場合それは、厳密に言うと錯覚でしかなくて、でも、うまく暮らすには有用な錯覚です。印象派の絵を見て、点がたくさんあるようにしか見えないってのは、辛いですよ。
なあなあに暮らせないってのは、さぞ生きづらいだろうなあと思うのです。これだって、想像でしかないんだけど。