偽ベー

偽ベートーベンの話は非常に興味深い話というか、個人的には音楽のような「聴きゃわかる」というジャンルの芸術にまでサブテキストやバックグラウンドストーリーが入り込んでるということが何よりも衝撃でした。

「作品それ自体」という以外の「意味」を排してゆく芸術を志しておりますれば、やれ感動の実話だの現役女子高生が書きましただのという余計な情報を憎み、ことによっては「衝撃の結末!あなたも必ず騙される!」の文庫帯にすらイラっとするわたくし。
やっぱみんな、芸術に意義を求めて、意味とか情報を食べたくて生きてるのかなあ、と気持ちが分かるような分からないような、へんな感じでこのニュースを見ています。

売れたとか売れないとか詐欺かどうかは、あまり興味がないというか、また別のレイヤーでの論議にすべきだと思います。
その辺と切り離してひとつ、音楽や絵画に解説は必須かどうかという問題について考えてみましょう。
個人的には美術史とか美術解説とかはかなり面白いと感じるので、音楽についてもライナーノーツはぜひぜひ存在すべしとは思ってるのですが、ライナーノーツ目当てに音楽を聴くのは正しいのか、という問題です。
結論から言うと詩の鑑賞と同じで、それはまったく問題はなく、問題はその次のフェイズなのです。
「嘘のライナーノーツは罪か」という問題です。
これも結論から言うとどこにも罪はありません。例えるならそれは、架空の劇作家を描いた映画の、劇中劇のようなもの。劇作家は実在しませんが、人は劇中劇の出来に感動し、実在していない劇作家の人生を思うでしょう。

今回の件、どこが野暮だったのかを問えば、「当人がネタばらしをしなかった」ということのように僕は考えています。例えば、いい加減世間に認知された頃、自ら「これはわたしの作ったものではありません。さて、あなた方はこの曲への評価を変えるでしょうか?今あなたの胸をよぎったものの正体はなんでしょうか?あなたがたは、音楽を耳以外の器官で聴くということについて、どう考えるでしょうか?」と問題提起するとなれば、それは一個の壮大な参加型芸術と呼んでもよかったのかもしれません*1。会場に痩せ細った犬を繋いだ作家や、ミキサーに金魚を展示した作家の、訴えたかったことに近しい結果を得ることができたのではないかと思います。
つまり僕が言いたいのは、人の心を動かすものであれば、実在、非実在を問う必要はないということです。今回のことで言えば、代作の目的が、単なる怠惰と搾取と思えることに対して、僕はがっかりします。そして、今回の中心人物については語るほどではない、と考えます。
だけれども、作品を巡る鑑賞方法についてのトピックは別です。それは、現実世界を使って顕在化した思考実験として向き合うのが妥当かな、と思うのです。

僕たちは、どの器官を使って芸術に触れているのか。
興味深い問題だと思いませんか。

ともあれ。
芸術論はおいといてもマスコミのプロ根性の話としては、浪速のモーツァルトことキダタロー先生にコメントを求めてキダタロー先生任せでオチつけてもらうってあんたそりゃおんぶに抱っこが過ぎるぜ。

*1:僕の目指すものとは違いますが