ようやく長崎・佐世保の子の話を。

本館の方でひさびさに掌編、『世界再生』を更新。
ちょっと感じ変えてみました。色々模索中。
最近、『コグマレンサ』の最後のところだけ読んだんですが、なんか微妙に後味がすっきりしないというかなんというか。
その辺りから思いついての今回なのですが、余計なものを削ぎ落とすのもこの辺りまで来ると小説とか呼ぶのがおこがましい気がしてきました。何かうまい呼び方はないものか。掌編、ってカテゴリに入れるのは、許容範囲ギリギリの感じ。
あえてアレするなら「寓話」?
…でもそれって自分で自分の作ったものを呼ぶ感じじゃないんだよなあ。
なんていうか、その、小見出しに[毒]とか[皮肉]とか前置きして、これから皮肉言うよーとか言われると興が冷めるのに似てというかなんというか。
これから有意義な例え話をしますよー、っつう感じで書いたわけじゃないんです。僕がしたかったのはもっと単純なことです。
なんちゅーか。

赤ん坊かわいい(マジで)。神でもメロメロ(マジで)。

というのはさておき、小説を書くときに一人称にするか三人称にするか、という問題について最近、とっても思うんだけど。

「わたし(もしくは登場人物)のことを読む人にわかって欲しい」って思いながら書くと一人称になりやすいんじゃないだろうかしら。
逆に「あの人(もしくは登場人物)のことを、(誰よりもわたしが)わかりたい」とか思いながら書くと自然と三人称に向くんじゃないかというかなんというか。

よく、「主人公と作者の距離が人称に結びつく」ってえトピックは聞くんですが、そうじゃなくて、やっぱり描きたいものというか、書く動機によって変化しているのじゃないかと、思うわけです。
つってもこれは僕の場合だけかもしれないけども。

で。
誤解を恐れずに言えば「自分のことをわかって欲しい」という欲求はたぶん誰にでもあって、そして普段からしていることで、でも、「あの人のことをわかりたい」ってのは案外難しいんじゃないだろうか、とか思うんです。高等、と表現してしまうとなんかイヤンな感じですが、衝動よりはもう少し理性側に寄ったスタンスから出るものなんじゃないかとか。もちろんどちらが上とか下とか言うつもりはありませんが。
だから、一人称の文章は比較的簡単で、三人称を持続するのは難しいんじゃないかなあ、とか。もちろん異論たくさんありましょうけれども。ええ。

で。
最近、人のことをわかりたいと思うことが増えました。わかって、見習いたいとかそういうのじゃなくて、とにかく、(よいことも、わるいことでも)僕のしないことをしている人の心の中を知りたいと思うようになってきました。
物語の中に、作者が理解できない人物を登場させるのって、なんていうかすごく難しいと思います。理解できない人のすることなんて書けないような気もします。
でも、理解してなくても、「あの人ならこうするんじゃないか」とか、「この人ならこうしそう」とか、そう考えながら物語を進めて、そして、書きながらゆっくりとその人のことを理解していくとか、そういう風に他人へアプローチしてみるというのも、アリなんじゃないかなあ、とかなんとか。

長崎の子の話なんかを考えていて、少しそんなことを思ったりしました。聞くところによると彼女も小説を書いていたとかなんとか。
僕はその中身をあまり詳しいことを知っているわけじゃないけれど、なんていうんだろう。
はけ口として、自分を表に出したり自分の中のものを外に出す「出口」として小説を書くことも勿論大事だけれど、書いている自分自身が、自分の内面に入ってゆく入り口として小説を書くってのもちょっと、あってもいいんじゃないかとか思います。書く過程を大事にするっていうかなんていうか。

もっと、ひとのことを知りたいと僕は思います。
そのために、残酷なことや、やるせないことを「理解できない」と言って目を逸らすのは止そうと思います。全部見て、たくさんの人のことを知りたいと、僕は思うのです。