ほかに知らないから口ずさむ

これは、僕が小説を書くようになったきっかけと理由の話だ。

はっきり覚えているけれど、それは、中学三年の夏、ちょうど今頃の話だ。今からだと何年前になるだろう。いやあ、すごいすごい昔のような気がするけれど、まだ十年かそこらしか経っていない計算になる。
そのころ、高校への推薦も決まっていた僕は夏休み、歳をごまかして洋風料理のお店でアルバイトをしていた。理由は、なんというか前々から料理も好きだったというのもあるが、何より「アルバイトをする」ということを体験してみたかったのだ。歳をごまかして、しかも禁止されているアルバイトをする、ということに僕はしびれた。当時から学校などではそれなりに真面目にしていた僕は、まあ、バイト程度で興奮しちまうような、なんというかかわいい中学生だったわけだ。
とはいえ仕事はなかなかに忙しく、そばの映画館で新しい映画が封切りになった土日なんかは、もう、これで時給750円じゃあ嘘なんじゃないかってくらいお客が入ってへとへとになった。まだ入りたてだった僕は、キッチンの手伝いで、休む間もなく皿を洗いまくっていた。毎日毎日、その日働いた時間に750円を掛けて、来月の給料日には幾ら手に入るかってことを計算するのも楽しかった。生まれて初めてに近い世界で、毎日生まれて初めてに近い感動を味わっていた。とにかく、体験することすべてが斬新だった。もう毎日がアメリカ大陸発見だった。

簡単な料理なんかを作らせてもらえるようになった頃、とある事件が起きた。

それまで時々はホールの方にも駆り出されていたので知っていたのだが、その店には通称「タベナイさん」と呼ばれる常連客(といってもいいのかなあ)がいた。
タベナイさんは、外見でいうと三十代半ばくらいの男の人で、その名前の通り、何を注文しても注文した料理に手をつけない人だった。でも何かが気に食わないというわけではないらしい。ヤクザだという噂もあった。たぶんそれは、タベナイさんの右手の指が二本、足りなかったからだと思う。
ヤクザかどうかは最後までわからずじまいだったが、タベナイさんは、いつも違う誰かと来て(それは男の人の時も、女の人のときもあった)、むっつりと額にしわを寄せて小声で何かを話していた。スタッフがそばに行くと話をやめて、はやくどこかへ行けといわんばかりの顔で顔を見上げてくる。そろそろ帰ってくれませんか、という催促を受けるのがわずらわしいのか、タベナイさんは割合早く出来上がる料理を三皿ほど注文し、その皿を脇にどかしたまま、連れの人と密談らしい会話を続けるのだった(もちろんタベナイさんの連れの人も料理には手をつけない)。今にして思うと、店の側も心得たもの、というべきか、大体一時間くらいで帰るタベナイさんに対して、特別何か対策を練るだとか、そういうことはせず、単にたくさんお金を払ってくれるお客として認識していたのだと思う。
勿論、僕も好奇心の弱いほうじゃないから、ものすごく気になった。ホールの手伝いをしているときにタベナイさんが来ると、隙を見ては水を換えに行ったりしていたものだ(タベナイさんは、料理には手をつけないけれど時々水だけは飲んだのだ)。でも、どうやってもタベナイさんの会話の内容は盗み聞きすることができなかったし、なにより、段々何を注文しても一切手をつけないタベナイさんが憎たらしく思えてきたので、僕はタベナイさんに関わるのを避けるようになった。せっかく作ったのだから食べろよ、と僕はタベナイさんのことを軽蔑していた。

Hさん、というバイトの先輩がいた。Hさんは高校を出たばかりだっていう女の人で、今でも珍しいくらいの、前髪を短く短く切ったショートカットが似合う人だった。記憶の中の先輩なのでちょっと美化されてるかもしれない。ともあれHさんは人と話すのはあんまり得意じゃないらしくて、ぐわあーっとモノをいうタイプのオーナーに時々泣かされているのを見たことがあった。でも、割と料理の手際は悪くなくて、なんというか、この人は職人肌だなあ、というのをそばで見ていて感じることがよくあった。暇な時に時々ぼそっと言う冗談なんかもすごくセンスがあって、なんていうんだろう。まあ、僕からしてみれば、もう憧れの先輩だった訳だ。

で、ようやく事件の話になる。

その日は人が足りなくて、Hさんと僕だけで厨房を切り盛りしなきゃならなかった。バイトチーフが手伝ってくれそうだったものの、ホールでゴタゴタがあって、チーフはほとんどそっちにかかりきりで、厨房には、時々顔出して発破かけたりしてくるような、そんな感じだった。
本当に文字通り殺人的な忙しさで、しかもこれまたチーフがオーナー系の、ものすごくぐわーっとモノをいう人で、忙しさと、チーフの煽りに、もう僕は気が狂うんじゃないかと思いながら皿を洗って、パスタをゆでて、Hさんの手伝いをしていた。

で、そんな状況の中、タベナイさんが来たわけだ。

タベナイさんはいつもどおり二人連れで、珍しく時間がかかる魚と肉の料理を注文したようだった。
チーフが厨房に顔突っ込んで、怒鳴るように「××と○○はタベナイさんのだから後回しでいいよ!」と言った。なるほど、というかこれまでにもそういうことはあったのだが今回ほどそういう指示が妥当だと思ったことはなかった。まだ注文されて作り終えてない料理がいくつもあって、とてもじゃないけれどその料理を作る余裕なんてないように思ったのだ。
でもHさんはタベナイさん用の料理の準備を始めた。僕は目を疑ったね。Hさんがチーフの指示を公然と無視したというのもそうだけれど、この状況ではなんというか、非効率的だって思った。でもそう思っても口には出さないで、僕は僕に出来る手伝いをした。チーフよりはHさんのほうが好きだったし、その黙々とした横顔には気迫さえ感じたからだ。

そして、少し経ったら、またチーフが追加の注文を持って顔出して、Hさんの手元を見つけてすごい声を出した。怒鳴った、というわけじゃないのだけれど、横にいた僕がこわくなってしまうような声だった。
「Hちゃん、何やってんだよ!」
さすがにHさんもびっくりしたらしくて、一瞬手を止めたけれど、すぐにまた作業を再開する。僕までがびっくりしていると、いいからそっちはちゃんと鍋見てて、と釘を刺された。そしてチーフは
「やめろよやめろ、どうせタベナイさんのなんだから、後に回せって」
などと、とうとうキッチンに踏み込んできてHさんをやめさせようとしたのだけれど、Hさんは、ちゃんと同時に他のも作れますから、とかなんとか言って抵抗したのだ。
チーフはまだ何か言いたそうだったけれど、忙しいことを思い出したのか、ぶちぶちといやみのようなことを言い残しながら出て行った。チーフは出て行き際、「頼むよ、ちょっとさあ」なんて声を出してHさんの背中を睨んだ。その、さげすむような目を見て、あいついやなやつだな、と僕は思った。けれど、同時にHさんにも、そんなに抵抗することないのに、とも思った。
確かに他のも同時に作れるとはいえ、作業効率はもちろん落ちたわけで、さらに間の悪いことに、Hさんがタベナイさんの料理のために新しくソースを作っているところにまたチーフが、しかも催促のために顔を出してしまったのだ。
「Hちゃあん」
さっきよりも三倍くらい感じの悪い声だった。
「どうせタベナイさんの料理なんだから、ソースなんてそんなちゃんと作らなくていいんだよ、色だけあってりゃ、それでいいんだよ、君も手伝ってんなよ、なあ」
と、そんなことをチーフは言った。僕はさっきまでの、Hさんもチーフもどっちもどっちだよなあ、という蝙蝠的な天秤がいっぺんにHさんの方に傾くのを感じた。さらに一瞬頭に血が上り、それって何か違いませんか、と口を挟みかけたのだが、Hさんがひゅっとチーフを睨んだ目を見て、のどで言葉がとまってしまった。Hさんは、目にいっぱい涙をためていたのだ。
Hさんが影で泣いているのは見たことがあったが、涙目で人を睨むのは初めて見た。
チーフもそんなHさんの表情に一瞬ひるんだようだったが、面と向かって激突することも、折れることも避けて、いいから○○早く頼むよ、そんなのやってる暇があるんだったらさあ、と捨て台詞を放り投げるようにキッチンから出て行ってしまった。僕がいたせいか、これだから使えない女はよう、などとは言わなかったが、ほとんどそういうような雰囲気を振りまいてチーフは出て行った。

でも、すごく雰囲気が悪くなった。
Hさんは泣いてるし、仕事は忙しい。僕は気まずく色々回りのことをしながら、隙を見てHさんに話しかけた。
「Hさんは間違ってないと思いますよ」
Hさんは少しホールへの入り口に目をやって、ううん、と首を振った。結局、それ以外は特に口を利かなかったと思う。
少し遅れたけれど、タベナイさんの料理も含めて、順番どおり作った。

そして、しばらく。
店が落ち着いてきてタベナイさんが帰った後、手をつけられていない皿を下げてきたチーフが、その中身をかなりこれみよがしにバケツにべしゃっと捨て、Hさんに懇々と嫌味のような説教をした訳だ。
もう、そりゃすごい嫌味説教だった。優先順位がどうのとか、なんとか。それをHさんは黙って聞いていた。僕は横から何度も口を挟んだり、もしくは厨房にある武器になりそうなものでチーフの頭を殴ってやろうかと思った。でも、そのたびにぎろっと睨まれて、「これは君にも言ってんだからな」とこちらに釘が刺される。チーフに見られると思わず僕は逃げ腰になってしまった。言い返そうとしたのだが、足が震えてどうにもならなかった。中学生心にも、負けたと思った。Hさんは悪くないのに、と思ったら悔しくてどうにもならなくて、なんだか涙さえ出てきた。

その日の帰りがけ、Hさんはロッカーで少し悲しそうに僕に言った。
「私、馬鹿だから、チーフの言うみたいにソースとか、手を抜いてやればいいんだとは思うんだけどさ、作り方、他に知らないから、どこに手を抜いていいのか分からないのよ。私、他のやり方、できないのよ。だから、ゴメンね、私のついでに怒られちゃって」
聞いて僕は、もう、びっくりしてしまった。
てっきりHさんは料理人のプライドとか、そういうので抵抗したんだとばかり思っていたのに、どうもそうじゃないらしいのだ。手の抜きかたが分からなかったから、なんて、半分呆れたけれど、そのシンプルな理由はなんというか、すごく、いい、と思った。一瞬でも「もっとうまく立ち回ればいいのに」と思った自分をさっきよりもすごく強く、恥ずかしく思った。不器用だからって損をするのって、間違ってる。そう思った。
同時に僕は、猛烈に、そんなHさんのために何かしたいと思った。こういう不器用な人が、不器用に、真面目にやっていて報われる世界を作りたいって思った。
で、不器用に、でも真面目に働いている人が、まわりの人からは馬鹿にされるんだけど、いつか偉い人の目に留まって、成功を収めるというような小説を書いた。
一ヶ月位かかって、原稿用紙で四十枚だか五十枚だか書いた。

結局色々あって、その小説はHさんには見せられなくって、何のために書いたのだかは分からないようなものけれど、今でもくじけそうになったときには、それを取り出したり、Hさんのことを思い出したりする。
いつか、Hさんみたいな人の目に、僕の小説をおくりとどけて、元気をあげたりすることが出来たら、なんてすばらしいんだろうと、そうなれたらいい、と、考えながら書いている。
思い返せば、あれは僕が小説を書くようになったきっかけであり、そして、Hさんに抱いていた憧れは、いびつながら、恋愛にも似た感情だったのではないかと思う。

ちなみに、その洋食屋は今はない。跡地にはスターバックスが建っているだけだ。