フッキせぬ。

フッキせぬがフンキしたのでちょっと長く書こうと思う。
何について?そう。創作についてだ。
最近特に思うのだけれど、僕は忙しい。今の職になってから、月間の労働時間がおよそ300時間に届こうかという勢いである(実際はそんな行かないけど)。殆ど机に向かっているとはいえ、デフォルトで一日12時間というペースは未だ健在である(はやく帰る日もあるけど)。しかし、この忙しさを僕はたいへん好ましく思う。何もすることが出来ない日もある。家に帰り、食事を取ったら一時、風呂に入って二時、翌朝起床は六時、という日もある。鉛筆を握る気力も出ない。ただ、バンテリン1%ゲルの壜などをしげしげと見つめるしかできない夜もある。だが、その忙しさを、僕の創作にとって、たいへん好ましいものだと思うことがしばしばある。
それは、とても好ましいことだと真実思うのだ。
だがしかしそれは、「筆を取ることが出来ない時間がバネになって、時間を手に入れた時、創作意欲が跳ね上がる」という意味ではない。それは、ある一部の特殊な人には起こりうる現象かもしれないが、あまり現実的な想像だとは思わない。真実はまったく逆だと僕は考える。
「創作についてまったく考えない時間」というものが重要なのだと僕は思うのだ。
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ここからは若者へ向ける因縁のようなものになるかもしれない。もしくは、僕がとうとう他人の領域を踏み荒らすような真似を始めた、と僕を軽蔑する人が現れることも想像のつく話だ。しかし僕は今、言わねばならないような気になってしまっている。だから書こうと思う。

ありあまる時間。創作だけに向けられた情熱。他の価値すべてを投げ出しても文筆に、絵筆に、楽器に、全ての芸術にさえ秀でれば何を犠牲にしても構わないと言ってしまえるひたむきさ。純粋さ。禁欲主義的な清貧の思想。今の己を是とせず、究極を望む姿勢。
それらの要素が「若さ」とともにあるとき、一見したところ真実の創作に向かうように見えるそれらの物がすべて逆向きにはたらき、創作を貧しくすると思うのだ。

結局のところ、学生は学生の出てくる話しか書けない。
これに尽きる。もっと辛い言い方をしよう。
学生には、学校という世界と、どこかで読んだ事のある空想世界しか書けない。

別に僕は学生が嫌いなわけではないし、学生の中には多分、僕の想像を越える人がたくさんいると思う。天才、と呼ばれる一握りの人たちもいるだろう。学校を出てそのまま小説家になる人もいるだろう。だが、大多数においてこれは真実だ。真実だと、最近思うようになった。
あーあ。とうとう言ってしまった。これがダメな社会人の見本である。言いたいことを言いたいからという理由だけで言ってしまう。あーあ。これでやる気を殺がれる人がたくさんいるだろう。スクールノベルはダメですか、とよく判らない因縁もつけられるだろう。学生の創作は嫌いですかと言われることもあるだろう。
でもまあいいや。
僕はまだ子供だし、人間の枠外の認定も受けたし、天狗だし。

ともあれ、創作の話だ。
描きたいときに、描きたいよう、描きたいものを描く、という段階がある。それはそれでいい。
そして、その次だか前だかその隣だか知らないが、「自分にしか書けないもの」を探すという段階がある。それも探していればいい。
だが、描くことがないのに「今日も明日も明後日も描いて過ごしていたい」というのはダメだ。ここにはっきり申し上げる。ダメなのだ。

それは創作へ向かっているのではなく、日常から逃げているだけなのだ。日常から逃げる方向に創作があるように見えるから「自分は創作へ向かっている」と錯覚するのかもしれないが、それはたとえるなら、文無しが酔っ払った末に行くあても定まらず、川原を歩きながらふっと空を見上げたところへ都合よく月が出ていたので「俺は月へ向かっている」というようなものだ。
月は、晴れた夜ならどこからだって見える。

創作は、多分、見上げる月のようなものだ。日常の暮らしできちんとあたりを見ていない人が月を見上げたって、何がわかるものか。
これは、最近とてもつよく思うことだ。上で述べたことが、自分が忙しくて何も出来ないでいる故の妬み嫉み僻みではないか、ここ数日考えていた。しかし、そうではないということがようやく判ったのでこうして今日、書いているのである。僕は特に書かないことに焦りを感じない。「書けない」と「書かない」の区別は僕にはない。
僕は確かに今、物語から遠いところにある。それを指して描かなくなったオトナが下らないことを言っていやがる、と吐き捨てるあなたの若さを僕は好ましく思う。心強くも思う。
だがいつかあなたもわかるだろう。
きちんと日々を過ごし、きちんと喜び、きちんと腹を立て、きちんと愛し、きちんと憎み、きちんと涙を流す、そうすることがどれだけ重要かということが。

僕は今、現在の、忙しい自分の日々を愛そうと暮らしているがなかなかうまくない。愛が足りないと思うことはあるが、それが、愛されたいと思っているのか愛したいと思っているのかさえ判らないくらい、忙しかったり疲れたりして、目が回るような日々を送っている。だが、だからこそ愛の存在をとても強く感じる。そこかしこに愛はある。憎悪もある。無関心もある。それを感じるというのが大事なことだ。

創作するということが、生きることと地続きならば、時には創作から離れることが、とても大事だと、思うのだ。そしてその「時には」が一ヶ月であれ、一年であれ、十年であれ、一向に構わないと、僕は思うのだ。人生には潤いが必要だ。創作は潤いの剰余生産物であって創作が潤いを生むなんてことは滅多にない。僕はそう思う。怒りや絶望を創作によって消化しようというのはあまり経験がないのでわからないけれど。

だから、ともかく、おやすみなさい。