昨日の記事について。

後に自分で読み返しても途中経過がわからなくなりそうなので端折って記述。

  • 日に一度の飯さえ食えぬ子のいる世界で、クーラーに涼む生活を守る為の努力にいかばかりの価値やありや。
  • 危急逼迫した人間のとる行動こそが本性なるべし。
  • 本性卑しかればそれすなわち滅ぶもやむなし。
  • 本性偽ったとて、いつか露見す。同じことの繰り返しなれば、いっそ引導を渡すのも御役目。

つまりー。そのー。それが「正しい」ことか「正しくない」ことかは別にして、社会がダメになったときに立ち上がる人の言うことが一番信用できると僕は思うわけです。私利私欲であれ、世界を憂うのであれ、ともあれその人の本性が現れると思うのです。そういう言葉を聴きたいと思うのです。受け入れる受け入れないは別として、信用できる。
ま、上記のトピックの場合僕の聞きたいのはは「日本」の声なんですが、ぶっちゃけた話、日本がダメになってグズグズに煮崩れてしまって、そこから、人間としての本性を原動力として起こる「再生」を見たいのです。道端に子供の物乞いがいる社会になって、そこまで来て再生する気力も隣人を愛する気持ちも、相互互助の概念も沸いてこなくば、滅ぶもやむなしというか。それが本性なら仕方ないじゃんよ、というか。
世界は理不尽なものであるというのは絶対的に美しい真実であって、その美しい真実を叩き壊す役目を持っているのが人間の「愛」であると常々思っております。人間の存在価値というのは、摂理を破壊し、作り変えることだと思っております。
しかし、同時に僕は自然にも畏敬の念を持っています。熱力学第三法則を崇拝しています。
要は、どちらが勝ってもいいのです。真実全てのものに対して平等に理不尽な世界が勝つのか、そんな世界のありように逆らう野卑な愛が勝つか、どちらでも僕は構わないのです。勝ったものがこの世の本性であります。

僕がいつも逼迫してから行動を起こすというのは、面倒くさがりで鈍感だということもありますが、本性で生きていたいと思うのも理由の一つです。追い詰められて、自分が現す本性というものに、ものすごく興味があります。僕は自分で自分の本性があまりよく判らないと思います。卑怯であったり、脆弱であったりするのかもしれません。自分の生き方を見極めるには、自分の本性といったものを顕にしてからで充分だと思うのです。本性をはっきりさせて、自分が怠惰であれば怠惰なりに、凡愚であれば凡愚なりに生きようと思うのです。
少し話がずれますが、そういう理由で僕は忙しい仕事についたのです。
忙しく、それほどの高賃金でなく、社会的地位も高くなく、苦労の方が多いような仕事を選り好みました。搾取され、使役され、疲労の淵にさまよう仕事を選んだつもりです。もっとも、最近は忙しさを除けば少し楽をしてしまっておりますが。ええ。
ともかく、忙しい日々、疲労する日々、自分がどこまで創作だのなんだのに未練を残していられるかどうか、試そうと思ってこの仕事につきました。忙しいという程度のことで筆を捨てられればそれまでの情熱だったということだな、と。そういう感覚でした。
最近は、少し考え方が変わって、創作することは生きることと真実に地続きだなあ、と思いはじめたゆえ、忙しさが「障害」であるという風には思わなくなったのですが。まあ。それは。それとして。
本性です。
大変な障害を背負って、追い詰められれば追い詰められるほど、人間の本性はクリアに出てくると思うのです。そして、僕はそれが見たい(主に自分の)。真実一路。一種のマゾと呼ばれるもやむなし。

そういう理由から、財政改革だの内政改革だのを一切せず、むしろ官僚は腐敗をむさぼり、福祉は人びとに届かず、犯罪と飢餓が横行する社会にしてしまえ、と僕は思ったのです。そして、そこから革命は生まれるだろうか。自分は革命を起こすだろうか、というような。
でも、友達と話しているうちに、そういう社会になってしまって起こるのは、革命ではなく一揆だなあ。と。思ったのです。うん。本性というよりか本能というか。我慢できないから暴れる、というのは本能であり、本能というのは自然のサイクルの一面であり、ランダムに理不尽なこの世界においては数度の一揆など、特に法則だった特異になりえないのではないか、というか。隠された本性ではないな、というか。
そんなことに気付きまして。
で、昨晩のようなことを書いた次第。

なんかめんどくさいことを書いてますね。ごめんなさい。そういう理由で僕は漫画、『シグルイ』をものすごい興味深く読んでます。失うことから全ては始まる。まさに正しい。
正しいのではないでしょうか。あと虎眼先生のアレっぷりがアレ。
ではまた。