あ、つまりですね。

僕はもともと自由であり、もし束縛されていると感じるとしたら、それは束縛される位置へ自分から選んで進んでいったということで、それに我慢がならなくなったら自分でなんとかするしかないのです。
と、いうか、もともと自由なのだから好きにやるしかないというか、自分で自分を束縛してどうするんですか、という話なのです。
我々はもともとそれぞれ唯一の存在で、干渉できるものなどどこにもないのです。
暴力に屈したように見えたとしたら、それは「暴力や痛みを恐れるわたし」がわたしを屈服させたのです。
しがらみに負けたように見えたとしたら、それは「人に嫌われるのを恐れるわたし」がわたしを埋没させたのです。
お金に媚びたように見えたとしたら、それは「貧困をおそれるわたし」がわたしを傅かせたのです。
つまり、おそれるものを減らしてゆけば減らしていっただけ、わたしは自由でいられるということだと考えます。自由を愛するということは、恐怖を克服するということです。恐怖を克服するためには、ひとつ、何者にも換えがたい信仰をもつことです。
僕は唯一、自分の中にある物語を信仰します。誰も僕からこれを取り上げることは出来ません。体の外側に信仰の対象を求めるのはなんだかおそろしい気がして、僕はいまひとつ宗教について懐疑的なのですが、多分同じ理屈なのだと思います。