再燃。なぜ人を殺してはいけないのか。(1)

という火がついたのも、知人の日記でちょろっと取り上げられていたので振り返るんですが、この問題には数々のそれぞれの回答が示されてきたわけです。この検索から「自分なり」のところを変えたり削ったりするともう本当にみんな考えたんだなあ、ということが判って嬉しい限りです。

さて、僕は永遠の中二病ですけれども、それから随分歳をとって、最近考えます。
人を殺してはいけないのか、という質問自体、方程式のようなものではないかと思うのです。それぞれの人生を代入すると勝手に答えが出てくるようなものではないかと思います。
ただ、世に言われているこの問題は、ちょっとずるい言い方をしているんですね。判ると思いますが、「人を殺してはいけないのか」ではなく「なぜ人を殺してはいけないのか」なのです。つまり、人を殺してはいけない、という結論が、すでに解として誘導されているのです。これは、設問としては「この問題の答えはプラスの値になるかマイナスの値になるか」ではなく、「なぜこの問題の答えはプラスなのか」というような感じなのですね。もうほとんど結論が前提になってるんです。
僕が中学生の頃に感じていたなんともなしの違和感というか、なにか頭ごなしに言われている気がした原因はこれでした。子供の頃のうまく言えないこといっこ解決。スッキリ。スッキリ。
いやいやともかく。
思うに、なぜ人を殺してはいけないのか、と聞かれたら、なぜ人を殺さなければならないのか、と問い返すしかないと思うのです。大人になった僕としては、殺す理由がないから殺さない、という結論しかありません。長く生きていると、人を殺すチャンスというものはけっこう巡ってくるものであります。今ちょっと何かをすればこの人は死んでしまうんだなあ、という機会は割と多いです。何も別に殺害機会という言葉を使ったからといっておおげさなものではなく、簡単に言えば電車のホームなんかがそうなわけです。滑り込んでくる電車を前にして、並んでいる前の人を思い切り突き飛ばしたらその人は死んでしまうわけですね。つまり、人の生殺与奪の機会は、生きている限り人間は直面しつつ暮らしているんです。
でも普通、人を殺したりしないんです。
なぜかというと、それは、殺す理由がないからではないかと思うんです。擦れ違うだけの人を殺す理由がないんです。動機とは違います。理由がないことをあえてするには、理由が必要だと思うのですね。まあ僕、「自分を突き動かす得体の知れないもの」にまでわざわざ名前をつけて管理するほどの、ある意味理論厨のはしくれですからアレなのですが、そうなのです。
じゃあ理由があれば殺すのかという問題については棚上げしてまたのちほど。