何もない世界


自分探し、という言葉の持つ不思議な響きについて考えています。この言葉は本当に奇妙です。
絶望的に安っぽい響きの癖に、そこには無視できない淵が広がっています。「ならばお前は、自分の本分を見つけたのか」と問われれば沈黙せざるを得ない、そんな深淵があります。深水を覗き込むものは同時に、深水に覗き返されているのだと、そう呟いたのは誰だったでしょう。一体世界で誰が、自分という怪物の、本当の恐ろしさに気付いているというのでしょう。
「自分探し」という言葉を口にする人々は、大概の場合、現状への否定を抱えています。今のわたしは本当のわたしではない。世界がわたしを歪める。わたしがわたしでいられないのは世界のせいなのだ。
かくして人々は自分探しの旅に出ます。しかし、大半の人々は気付いていません。その目がとらえるものが「中身」ではなく、不自由なく過ごせる「入れ物」であることを気付かずにただ、移動を繰り返します。そして結果、ただ感想だけが残るのです。
「様々のことを経験し、もがき、探してみたが結局わたしはわたしであった。住む場所や仕事を変えても、なにも変わらないことに気付いた」
旅は、彼等に何も与えませんでしたが無意味ではありません。僕は彼等を哀れだとは思いません。毎日歩き続けて高みにたどり着いたのです。「世界には何もない」。その結論は上り始めたとき既にもう見えていた頂とはいえ、実際にたどり着くのはそれだけで評価すべき業績です。
しかし、本当に何もないのは「世界」だけなんでしょうか。
考えています。

僕が、自分の本分を見つけたい、と今していることはもしかしたら、とても危険な行為なのかもしれないと少し考えています。