あああ我が痛みが

その不幸や痛みが、どこかの誰かの幸せと因果関係にあればいい。そう思うのは多分、自分の幸せの影にたくさんの他人の苦しみや悲しみが隠れているからなんだと思います。不遜だけど、そんなことを思います。

ふたつのことに因果関係はないよ、と人に言われたけれど。そういう風に思います。
この週末はちょっと遠くへ行きました。孤独に、心静かに過ごしました。いや本当は静めなくてもいいのかも知れません。常に心動くのが人間なのかも知れません。
いざ海へ出るならば地上の体術に益はなく、揺れる足場に慣れることこそが肝要なんです。
二度再現出来ない動きを、ただの偶然と捨てるのではなく、それこそが本分と捉らえることのできないものでしょうか。
伊豆の午前四時、誰もいない広い広い広い大浴場に横になって髪を濡れるにまかせ、天井を見ていました。
天井だけを見ていたら、いつのまにか夜があけていました。

関係ないように聞こえるかも知れませんが昨日、パソコンが壊れました。もううんともすんとも言いません。中身もきっと駄目でしょう。書きかけの小説も、塗りかけの絵もどこかへ行ってしまいました。まるで何かをさし示すようなタイミングです。
このところ、大事な友人たちから絶交を言い渡されてばかりです。でもきっと変わってしまったのは僕のほうなんです。明らかに違う足、違う腕で暮らしています。仕方ないがせつない日々です。友達がへってゆくんです。

パソコンが壊れた夜。昔の夢を見ました。かつて、今とは違う人と過ごしていた頃の夢です。夢の中、わたしはその人に語りかけようとして、結局何も伝えられませんでした。昔と同じように呼び掛け、そしてそれが既に過去の、今はもうないことだと自分で気付いたのです。現実でわたしの頭を抱いていたのは年若い恋人でした。
目が覚めるとわたしは少し泣いていたようでした。ぽつんと寂しい気持ちでした。恋人はわたしの頭を抱き、こわい夢を見たのだと勘違いをして髪を撫ぜてくれました。しかしわたしはわたしで、ただ過去の背中をなぜていただけなのです。
今わたしは本当に幸せと思います。ただ、懐かしみと、思いの残像がわたしの中に残っているのです。それは名前をつけることのできない、怪物のような郷愁です。巣くうでもなく、食い散らすわけでもなく、ただ時折姿をあらわすのです。名前のないものの名前を呼ぶわけにも行かず、己の名を分け与えるのも不遜です。
ただわたしはそれを心のうちに留め、明日からを再び生きるのです。生きることが使命です。
悲しいけれど、誰とだって死に別れたわけではないのだから、またいつか会うこともあるでしょう。たとえ死んでしまっても、またいつか出会えるでしょう。しばしのあいだ、さようならさようなら。