思い立ち九州。(4)

結局、わたしは熊本まで来て、何もせずに帰った。お土産もなし。熊本城で手持ち無沙汰にご飯を食べて美術館のを覗き、バスに乗って空港に戻る。半日もない滞在時間。

自分が遠くまで出掛けた証拠も残さず、チケットの領収書も熊本空港に捨ててきた。これはまさに秘密の、無意味な秘密の旅。

そして東京への飛行機が飛び立つ。時刻は16時過ぎ。東京に着く頃には日が暮れていた。
本当に、何があったわけでもない。わたしは全くの気まぐれで出掛けたのだ。嫌なことがあったわけでも、変えたい何かがあったわけでもない。
中学生の頃、募金箱を持って歩いたターミナル駅を思い出していた。低い雲、低い空模様、わたしはあの頃の気持ちを忘れたことはない。どこにも出口がないようで、どこまでも地続きのように思っていた日常。飛行機に乗ればどこかへ連れていってくれると思っていた。
あんなに憧れていた飛行機に、わたしは今、乗っている。窓から外を眺めている。わたしは今、日常に帰るために、飛行機に。

雲海を抜け、高度を落とす。傾く飛行機の窓から見えるのは、きらきらと光る地上だ。人のいるところ、昨日と代わり映えのないところが光っている。
赤や白の光に目をやられ、わたしは不意に敬謙な気持ちになった。ひらめきがわたしを打った。
わたしが戻って行くのは日常だ。日常は、眼下に広がる光だ。わたしは今、光の中へ還ってゆく。わたしの周りにあったものは、あらかじめ、こんなに、美しかったのだ。

わたしは頬杖をつき、しばらく地上を眺めた。きっとこの美しさを忘れないようにしよう。ずっとこの風景をしまっておこう。

そして飛行機が着陸する。わたしの秘密の旅も終わる。

地上に降りたって少し逡巡し、空港からわたしは友達に電話をかけた。不定期な休みの友達だったが奇跡的に呼び出すことに成功し、わたしたちは品川駅のオイスターバーで夕食を食べることになった。
食べながら時折にやにやと笑うわたしを、彼女は訝しがる。
わたしは手を広げた。
「広島の牡蠣と北海道の牡蠣が同じお皿に乗る時代なんだよねえ」
アメリカの牡蠣もね」
「ワールドワイド皿だ」
「皿」
わたしたちは、しばしくすくす笑う。わたしは秘密の旅を思い出す。向かいの友達は屈託なく微笑み、つまむように牡蠣の殻を持っている。
「ねえ沙織、文明ってすばらしいね」
笑いの途切れた隙間でワイングラスを掲げると、友達は再びにんまり笑って牡蠣をグラスに持ち替えた。多分、友達はわたしとは違うことを考えている。わたしの頭にあるのは雲の上を通って九州まで連れていってくれるシステムだ。彼女が考えているのはワールドワイド皿のことだろう。ふたつは似ているが違う。違うがわたしたちは繋がっている。
友達は芝居がかった仕草でワインを揺らす。
「まったくすばらしいね」

彼女の声を聞き、わたしは、このすばらしい日常に帰ってきたことを実感した。わたしはこの平凡な世界に感謝する。
わたしはわたしのことを、わたしを取り巻くこの世界を、誠実に、深く愛せている。
そんなことを考えながら飲み干すワイングラス。日常はきっと明日も美しいだろう。乾杯。