帰還の挨拶(1)

まだまとまっていないのですがともかく書いてみようかと思います。
一昨年である2005年の年初、一人暮らしをはじめるちょっと前のあたりから、書くことがものすごく個人的なことから逸脱し、会社とわたし、のようなことしか書けなくなって、はてダから隠遁していたのでありました。それ以来、書いても気紛れに月のうち一週間かそこら、という状態になってしばらく。
ずうっと黙っていた僕が日記を書くようになったのが今年、2007年7月の半ばです。その頃に何があったのか、と聞かれると雷に打たれたとか天使を見たとか、その手の具体的なエピソードなどは特にないのですが、どうもログを見る限り、「何故人を殺してはいけないのか」というエントリーを書いたことが復帰のきっかけのようですね。これは、なんというか、何かの波長が合ったのか、割とホットなタイミングでyu2さんと多津丘さんが反応をしてくれたんですね。確か。
まあ、それも大いに関係があるんですが、ともあれ。

この一年、一人暮らしをして時間がなかったとか、色々な物理的な問題はあるんですが、何よりも同じことで悩んでいて、書けなかった気がします。
それは何かというと、つまり「自分はどれほどのものか」という問題です。多分、皆様方の中にも、品格があって大っぴらには表明していないとしても同じことを考えている人も居ると思います。今になってようやく、そういうことを書いてしまうことによる誤解や、あるいは虚像の破壊といったものが気にならなくなってきたので書くことにします。端的に言うと、やっぱあたしホントに身の丈でいいわね、みたいな感じです。

正直な話、僕は友人に恵まれすぎていたと思います。僕の周りには、大したことのないことでも僕を褒めて、評価してくれる友人たちがいました。
僕という人間は面倒な回路を持っていますが基本は割と単純ですから、褒められると嬉しくなります。もっとも、書くこと自体は割と『目的』で、別に褒めてもらうために書いていたわけではないので、そのあたりはあえて黙っていれば人の評価を気にしない孤高のアレ、という位置も取れたのかもしれませんが、でも、まあ、人間ですから自分でもよく出来たなあ、と思うものを褒められりゃあ嬉しいんです。

それまで、あまり人から褒められる人生を送ってきておりませんでしたゆえ、これだけ褒められるということは二つ可能性があるぞ、と考えたのですね。

1つ目
世の中の「褒められてもいいライン」はこれまで自分が考えていたより低い。自分が考える水準に達してなくても褒めてもらえるんじゃあるまいか。
2つ目
世の中の「褒められてもいいライン」よりも達していないのに褒められた。ということはきちんと「褒められていいライン」に達するためにもっとやらなきゃならんのではないか。

この両極端のどちら、ともスタンスを決めかねておりました。前者に傾倒すれば、人間として腐ってゆく気がしたし、後者に傾倒するにはストイックさが足りなすぎました。
このコウモリっぷりから、段々自分の内外におけるバランスが崩れてきたんですが、ともあれ。
この問題って、やっぱり今ひとつわかんないんですね。
『僕ってば、才能あるの?ないの?』
これが、例えば修練を積まないと出来ないものであれば違ったと思うんです。鉄を真球に加工するとかそういうものであれば客観的に考えられたような気がするんですが、いかんせん、小説なんて評価の基準がございませんでしょ。
小説を書こう、というのは別に変わった衝動でもないと思うし、普段日本語喋っているんだったら、書けないことない筈なんです。絵とかと違って訓練もいらないし、こうでなきゃならない、という決まりもない。ケータイ小説を例に取らなくても、小説なんて結構誰だって書けるんですね。しかも、大体どんなのを読んでも、書きたいことがある小説はそれぞれにやっぱり面白いところがあると来た。
で、そんな世界にあって僕は思ったことを書いてるだけなわけで、でも周りの友人は感想を伝えてくれたりするし、苦労した割には面白くないものが出来たり、苦労してないものの方が聞くと結構面白いとか言われたり、…などとゴチャゴチャ考えていくのも面倒だったので、とりあえず『自分は才能がある』ということにしよう、と決めることにしたんですね。こんなことに関わって時間を使うよりも、別のことしよう、と思ったんです。
自分は才能がある、ということにして、そこへ胡坐をかいてしまうことだけ気をつければ、あんまり害はないような気がしたんです。

でも、予想外の展開でした。一人暮らしをはじめた僕に、「貯めてしまう」傾向が出てきてしまったのです。
(続く)