期間の挨拶(2)

時間が少ない、人生は短い。
以前、あきうせいさんからも言われたことですが、これは一人暮らしをはじめて本当に思うことでした。日々、帰ってきてご飯作って食べてお風呂洗って入って二日に一度は洗濯して干して、というのをやっていると、十時帰宅するとそれだけで布団に入るの三時、とかそんな惨事になるわけです。
そうなると、どうにかして時間を捻出しなければ書く時間なんて出てこないわけですが、そこで頭をもたげるのは、「もったいない」という一語でした。

なににつけ、もったいない、と思ってしまっていたんです。たとえば、どうでもいい話題で日記を書くのがもったいない。これはちょっといいぞ、と思うアイデアを短編で使ってしまうのがもったいない。誰も読んでくれないスペースに掌編を書くのは時間がもったいない。
エトセトラ・エトセトラ・エトセトラなのであります。
そんな時間があったら「大勢が共感できて商業的にも十分勝負できる面白い長編を書くべきだ」という呪縛のようなものが、僕を縛り付けていました。
「才能があるんだから、書かないともったいない」
そうです。
『書く』、というそれ自体に余計な意味がついてしまっていたんです。
書くことを仕事にしようとか、思い浮かべる人のために書こうとか、期待に応えるために書こうとか、置いていかれないために書こうとか、様々な『意味』が僕を捕らえていたんです。

僕の周りは、本当に立派な人たちが多いと思います。自分自身も精一杯生きていて、それでなおかつ他人のしたことを評価できる人がたくさんいます。そういう立派な人たちの中にあると、リソースの無さや、自分が突出した能力を持っていないことはもう、おそろしく致命的なことのように感じてしまっていたのです。気付くと、恥ずかしくて肩を並べては歩けないような気持ちになっていました。
はやく、出来る限りはやく、自分の出来る「もっともよい仕事」をしなければ人生は終わってしまう、という危機感のようなものがありました。人生は短い。リソースは限られている。このまま年をとり、「時間さえあればやれたのに」「チャンスさえあればやれたのに」と呟いて暮らすのは御免だ、と思って暮らしていました。

ですが、当たり前ですがそんなポンと簡単に傑作なんて書けないんですね。傑作の気配のしないものを片端から捨てて、ちょっといいんじゃないかと思うアイデアだけ集めて、次ので使おう、次ので使おう、としているうちに、結局身動きが取れなくなっていたんですね。

でも、最近不意に、あれ?これって、「僕才能あるってことにしよう」と本当に決めた人は思わないんじゃない?、と思いました。
そう気付いたら、なんだか様々のものが晴れるように判ってきました。感じたことや書きたいことを書くんじゃなくて、『思いついたアイデア』を使うために話を組み立てている自分に気付いたんです。ああ、だから上手くいかないんだ。とか。
肝心のアイデアだって、これ以上のものは思いつかないんじゃないか、なんて自分を小ばかにするにも程がある考えです。無限じゃないのは想像力じゃないよ、とか。

そうしたら、不意に楽になりました。
色々なものに意味をつけてしまうのは僕の悪い癖です。
(続く)