グレンラガン総括。

気付けばテレビがゲーム機のモニター化している!
金八先生も電王さえも見逃してた!特に電王はずうっと見逃しっぱなしだあ!グレンラガンがあったときはいつも見ていたのに!

というわけで今更ながらグレンラガン雑感。まとめ。
物語の構造完成度というよりは、必要とされるサブテキストについての言及です。
先日もちらほら書きましたが、必要なピースは石川賢です。観念SFです。敵が最終的には神的なものとか原初の光とか宇宙の監視者とか、もう個人の枠では認知さえも覚束ないアレにグレードアップしてゆく石川賢です。戦いもだんだん光のぶつかり合いとかが、ぶわあ、ふわあ、どがあ、の大スペース石川賢です。
その石川賢を念頭に置くとグレンラガンの物語は、もう過不足なく完全な「ひとつの回答」になると思うのです。

物語は、ロージェノムと獣人の跋扈する世界で、虐げられた人類が反抗するところから始まります。まずは地下という理不尽があります。ロージェノムをやっつけて繁栄します。すると今度はアンチスパイラルが出てきます。ロージェノムは(方法論はともあれ)アンチスパイラルが来ないように頑張っていた人だったということが解りました。今更ながら、かつて理不尽だと思っていたことは実は理不尽じゃありませんでした。理由がありました。アンチスパイラルは言います。螺旋が世界を滅ぼしてしまう。だから抑える。ここにも理屈がありました。価値観がぶつかりあっての対立です。これつまり文明の衝突なんでした。
石川賢はいつもそれを描いていたように思います。

ともあれ、ここから物語は石川賢への手紙になります。
勿論、かつてロージェノムの出した結論が、石川賢の出したものとイコールであるとは断定できません。石川賢の物語は、未解決あるいは回答を示さずに終わっているものが多すぎます。
それらの物語が、どのように決着される「べき」なのか、あるいはどのように決着される「しかない」のか、それが石川賢から僕らに出された手紙でした。言い換えれば、石川賢が広げっぱなしていってしまった風呂敷です。
果てしない戦闘のスパイラルの、一体「どこ」でピリオドを打てばいいのか。インフレの先の相手は「観念」です。もう絶対勝てない敵です。光とか虚無とか秩序と呼ばれるものとか神的存在とか、倒しようがないっていうかそもそも倒さなきゃいけないのかそれ。みたいな感じです。
しかも、戦不戦の分水嶺は「人類が増えてゆく」ことを選択した瞬間なのです。まさにそれでは原罪なのです。

石川賢からの手紙を受けたロージェノムは、「勝てない敵とは決着をつけない」ということを選びました。至極現実的な選択です。ヤバい連中には手を出さずにある程度で安穏する。まったくもって現実的な選択です。だって相手、神とかだもの。倒した後の世界に責任なんて持てないし、そもそも倒しようがない相手です。
しかしそういう相手と争わないことに決めてしまうと、人類は原罪を背負ったままなのです。増えたいのに増えられないなら、物語を未完とするかしか選択肢はないように思えます。

そう。ロージェノムはいつかの石川賢と同じく物語を未完とすることを選びました。

しかし時間は流れて今。かつてのロージェノムと同じ立場に立ったシモンの、アンチスパイラル(そして過去のロージェノム)へのセリフが凄かった。
「それはお前の限界だ!」
そう、そうなんですね。物語の終着点は、「妥当な結論」であってはならないんです。先に何があるか見えないから突破を躊躇うのではなく、その先に、凡百の想像力では追い付けないビジョンを持って、天元突破するのが物語なんです。それが想像力なんです。

物語はかつて、石川賢からの手紙を受け取った僕らに、想像もつかなかった結論を繰り出しました。
それがすなわち
「次の世代がやる」
です。
今まで、自分がやらなきゃ誰が収拾するのだ、という呪いがありました。責任感や自負の域を越えたそれは、やはり呪いです。
その呪いを解くのは、「より強力な自分」を実現することではなく、強張った視界を再び自由に戻すことなのです。強いんだ星人はよく聞け、なのです。よく聞いてください。大事なのはただひとつです。
「出来ることを、ただ出来るようにしてゆくしかない」
天元突破した自分たちよりも、次の世代は遠くへゆける筈。その信頼は、種としての自分たちへの信頼です。知らず知らずのうちに、僕らは物語という「狭い箱」の中だけで帳尻を合わせようとしていました。しかし、箱の蓋は開いているのです。
最強ロボが負けても次のロボ、今度はその次のロボ。時間は続き、未来は螺旋を描いて上昇するのです。
その意味で、考えて動けなくなっていた人々に対し、シモンたちは答えを見せてくれました。

「それは、自分で勝手に決めた限界だ!」

僕は、だからグレンラガンは名作だと思うのです。もっとも、石川賢的テーマに頓着しない人や、自分に限界を感じていない人にとっては、どうでもいい台詞なのかも知れません。結果だけ見れば、強い敵をもっと強い俺が撃破、というだけの展開です。
しかし、シモンもわたし、アンチスパイラルもまたわたし、なのです。
自分に限界を感じ、分かった気になっていた我々を奮起させるものが、グレンラガンには確かにあったと感じます。
そしてそれは、言葉にする類いのものではないと感じます。グレンラガンに対する賞賛は、自分で作った停滞を自分で撃ち破る行動をもって初めて為されるように思います。
グレンラガンよかったわあ、という意見が今一つ具体的になってゆかないのは、そんな理由があるように思うんですが、いかがか。

あとは最終回、ニアが消え行くままに任せたのも、カミナの兄貴やキタン兄ちゃんを復活させようとしないのも、「それでいい」と事実を事実のままに認められたからだと思います。生や死は、乗り越えるべきものでも覆すべきものでもなく、次の世代に渡すべきものです。「螺旋の力も万能じゃないのよ」というのは、「万能ならば生き返らせたのに」、という悔恨ではないと信じます。死は悲しく、また受け入れ難い事実ではあります。しかし、それを受け入れ、変遷するのが螺旋の力の源なのだと思います。
F・F風に言えば、さよならを言うあたしなのよ。なのです。死人を生き返らせて何の意味のあるものか。命は「使ったから死ぬ」のです。使ったら無くなった、と喚くのは筋違いです。この程度の事態なら使いきらずに済んだ筈、といいたい気持ちは解りますが、まあ。それは己の物語でそうすればよい話。ニアはや兄貴やキタンは確かに生命を「使った」のだと、思います。
命を使って、世界は螺旋を描くのです。

また、昨今珍しく「あらすじ」に意味のないアニメだったのでわたくしはひどく評価しております。なんか見逃してもあらすじで足りるってのは如何かと思うのよね。
でもヨーコの新しい衣装はひどくダサかった。あとシモンはちいちゃいほうがかわいかった。