理系モヒカン族という概念について

今や僕はそれをかつて流行した「ポストモダン」だとかその辺りの概念と非常に似た性格の概念だと認識しています。そうじゃないかな、と思う。
すなわちそれは万人を幸福にする概念ではなく、ごく少数の「今現在生きづらい人々」の一部を掬い上げる概念だと思います。それまで「くうきよめねえ」とか「理論厨」と呼ばれていた人々が、ただ単に能力の欠如によるものではなく、「そういう一族」だったのだとカテゴライズすることにより、その特性を「欠損」から「個性」に格上げするものではなかるまいか。
それゆえ、そう名付けられた思考法は、従来の価値観に対して攻撃的であり、「万人に浸透してゆく」ことを前提にデザインされた概念ではないと言えます。言い換えるなら、それは後天的に獲得されない形質だということです。
今僕は、純粋な物珍しさからモヒカン族の物真似に手を出したことを、すこし後悔しています。僕はその思考法も、その概念そのものをも必要としていないタイプの生物でした。それは「そうでなければ生きられない」タイプの生物を救済する「命名」です。場面などで都合よく使い分けられる代物ではありません。
日本人は日本人。天狗は天狗。悪魔の毒々モンスターは悪魔の毒々モンスターなのだと思います。

なーんか、身辺も落ち着いてきて、最近本当にそういうことを考えるんだけど。