久々に書く。

相変わらず3Bは3Bだなあ、という感じ。久々に書きますが実は毎回見ております。
特に書くこともなく、というよりも普段は半分酔っ払いながら見ておりますためなんともただ見ているだけ、といった感がありますが今回。今回はむくむくと何かが起きた。目覚めて咆哮を上げ、手当たり次第に家の壁とか壊し出した。
というわけで今回のお説教について審議。特に、生徒とのやり取り。審議。
ざっと説明申し上げると、「お金で買いたいもの」というのを生徒に書かせ、次に「お金で買えないもの」、というのを書かせる金八先生。買いたいものとしてあげられたのはスポーツカーや犬などでした。買えないものとしてあげられたのは「愛情」だとか「友情」、「仲間」でした。
まずもってスポーツカーを例に取り、スポーツカーで何をしたいか尋ねるわけです。ハイスピードでぶっ飛ばしたいという答えを得た後、では高速道路をぐるぐる廻っているだけでいいのかと重ねて問うわけです。
ここで生徒が、それじゃつまらない、やっぱり人に見てもらいたい、と答えたゆえ、それはスポーツカーがほしいのではなくて「人から注目されたい」「人気がほしい」ということじゃないかね、と金八先生は結んでゆくのですが、ここで審議。
スポーツカーで高速道路をぐるぐる廻ってるだけで楽しい人じゃだめか。
犬に関してもそうですが、生徒の答えは「散歩に行きたい」「散歩に行くだけで満足ですか」「それだけじゃ嫌。かわいい犬でしょって自慢したい」「それはやはり仲間がほしいということじゃないですか」となるんですが、やはり。
犬と一緒にふにょふにょしたいだけじゃだめか。

お金の問題は、とにかく面倒くさい問題です。というよりも、本当のスポーツカー好きや本当の犬好きではなく、何かを満たすための道具として、そのようなものを欲しがる気持ちが病の根源のように思うのです。
好きなものを欲しくあれ、と思います。欲しくもないものを求めるな、と思います。その意味ではお金を沢山集めて通帳に並ぶ数字を好きだ、という人があれば、趣味としてお金を集めるのはまったく美しい活動だと思います。逆に、人から羨ましがられるために美人を娶ろうとする人があれば、それはまったく無駄な活動です。
あらゆる行動に、真意、と呼ぶべきか判りませんがとにかくワンクッション加わるのが文明の姿ではあります。ですが、そうやって「何かの代償」としてさまざまなものを消費するうち、理由無くただ消費する、理由無くただ行動する、ということを忘れてしまうようでは、そのうち本当に生きているとは呼べなくなるのではないかと思います。愛が欲しければ愛を求めればよいのです。愛が欲しいと叫ばずに、愛が寄って来るような「もの」を求めるのは、ただの回り道でありますばかりか、自分を見失わせる可能性すらあります。
学生の頃、すこし軽蔑していましたタイプの人々がいました。受験だとか就職だとか、そういうものに直面して、それまでの自分や現在したいことを全て投げ捨ててしまう人々です。それはまるで、「現在」を代償に支払って「未来」をよりよいものに変えようとしているようでした。現在をないがしろにしてよい未来のあるものか。すべてを手に入れようとしない者に何が手に入るものか。そんなことを思っていました。

小山内先生は毎度のことなのでアレですが、問題の問題たる所以を取り違えて、取り違えたまま解決してしまうのは、ほんとうに恐ろしいことになるような気がします。この場合、お金を欲しがることが問題なのではありません。お金を集める人に対して、「お前が本当に欲しいのはやさしい家族じゃないのか」と指を突きつけるのは、フィギアを集める人に対して「それはただ生身の異性が怖いだけじゃないのか」と食って掛かるのと、全く同じことです。
一言でいえば余計なお世話なのであります。
むしろ、犬とかスポーツカーを名声や羨望の道具としてしか見ていないのがキチガイ沙汰だと、僕は思うのです。突っ込まされた。突っ込まされちゃったちきしょう。釣られたか。釣られてしまったか。