ありゃすまん、嘘だった。

いや、なんやかやしてたら、昨晩の更新ができませんでした。
なんやかやというのは、つまり昨日昼間から引き続いて、ロストジェネレーションについてのマッチョとウィンプのエントリ潮流を読んでいたんですがともあれ。

大きく見て、「完全不可避の弾幕は存在しない。必ず回避方法がある」という論調と、「理論厨は怒首領蜂やってから言え」という論調に分かれているようです。我ながら分かりやすいなこの例え。
で、それに派生したエントリの中には、用語や名前の呼び間違いを巡ってねちねち噛みつく輩あり、撃たれた!オレ撃たれたよォ!つって泣き叫ぶ者あり。それぞれにそれぞれなりの当事者でありますからそこはそれなりの叫喚図です。

一件、気になったエントリは「マッチョ思想は宗教であり、一度染まると抜け出せない」という出発点に立って書かれたものです。
今、出先なので帰ったら今一度確認しますが、要は、「自分で自分を自分の力で救うしかない」というマッチョ教が、自分を救えない人を切り捨てるしかない方向へ向かうというものです。
マッチョ教の教義は非常に魅力的で聞こえのよい理屈のため、信者は排他によって狭量を強め、独尊的になってゆく、というようなエントリでした。しかもマッチョ教にはまると自分がマッチョ教徒であることすら自覚しなくなってしまうという。
逆の視点に立ったら当然生まれるはずの、「自助救済の叶わぬ人のことは皆で『救うべき』」という宗教の持つ誘引力や悪徳については書かれていなかったため、少々バイアスのかかった意見だなあと思いましたがともあれ興味深い切り口でした。

話題こそ違えど、似たような構造の事態に巻き込まれたことを思い出しました。
聞こえのよい理屈は、人を捕らえます。
理屈が先に立ち、感情を理屈に当てはめるようになると手に負えません。「その通りだと思うよ!」という相槌しか許されなくなる様は、さながら質の悪いメンヘルの昔話に付き合うような窮屈さがありました。
意見を求めておいて「あなたとわたしは立場が違うからその意見は参考にならないと思うの」ってのはさすがにひでえとわたし思います。

マッチョとウィンプの物語の欠陥は、やはり同じところにあるように思います。
マッチョは誰のことも「あわれなやつ」と思って眺めてはいません。ウィンプは自分のことを「なんてかわいそうなんだろう」と感じています。
そりゃ話が噛み合う筈ないよって思うのだけど。

まだまだ書かなきゃならないのになんかマッチョとかウィンプとか一生分使った気がする。なんかもっといい呼び方あると思う。何か考えようかな。