最近思うんだけど。

最近の、五輪開会式参加なんかやめチャイナムーブメントを見るにつけ思うことなんですが、そういうことを声高に叫ぶ人の中にも三國志スキーとか西遊記ラーがいるわけで、もちろん彼らにもそれぞれ言い分はあると思うんだけども、「その辺矛盾しないの?」つって聞かれた時に答えるのはやっぱり「それとこれは別」もしくは、「えっ、中国批判するなら三國志誉めちゃいけないの?」って辺りが軸なんじゃないでしょうか。
要するに、あまり枠を広げすぎると感覚はズレてゆくというお話。別々の問題を無理矢理ひとつにまとめるのが間違ってることもあるわけで。

本気で「スポーツと政治は別にしなきゃダメ」というアレを信用するのならば、特に「オリンピックは平和の祭典」という建前を愚直に尊重するのならば、今すぐ中国をいわゆるクメールルージュなりナチ公なりの扱いにして、国交の断絶とか経済制裁とか、考えうる最大の抗議なりなんなりをした上で、真面目な顔して「さ、オリンピックだけはきちんと、お互いを尊重しあってやりましょうね。まさか政治を持ち込まないですよね」つうのが本当のアレではあるまいか。という話なのです。

結局のところ、今や全ての国がオリンピックを政治の道具にしているのだと思います。今回、それを誰が始めたのかについては大事なことですが解決策を考えるにはあまり関係ありません。

今、「チベットがまた中国にツラい目に遭わされている」ということと「オリンピックがまた政治の道具になっている」ということはまったく別のことです。
だから後者においては中国に非はあんまりないように見えます。オリンピック開催国の立場を利用してチベットに喰らわせたわけではなく、単純に、中国が自分の責任においてチベット虐殺を行った訳ですから、許せないならこちらだってオリンピックなんかを持ち出さず、個別に表明すべきなのです。
オリンピック開会式ボイコットとか不参加とか、そんな程度の抗議しかしないのは、先人の言葉を借りるなら、ジジイのファックの方がよっぽど気合いが入っとるぞ、なんであります。

よって、わたくしはオリンピック不参加をもってチベット虐殺の抗議とする運動には消極的に反対します。
あんなとこでオリンピックやるべきじゃないとかいう声はそこかしこで見掛けるけれど「その先」に何をするのか、すべきなのかを表明している人はなんか少ない感じ。

じゃあお前何すんの?と問われると答えに窮するところですが、「何も出来なかったこと、許せないと思ったことを決して忘れない」というしかありません。
こういう問題は、ウズベキスタンのコットン奴隷や、チョコレート農場奴隷と同じなんですよね。結局のところ。
自分に何ができるか。それが分かるまでは黙って考えるしかない。忘れず、低く、考えるしかない。と思うんです。