四巻読んだ。

物語の内容についてはそろそろふれなくてもいいような気がしています。
竜児の腹がすわった瞬間、つまり、普段はその他の奇天烈な人物に流されるままの彼が、彼女らに正対する覚悟を決める瞬間を見るために読んでいる気配。
その他の人物についてはそれほど感じる部分がありません。ツンデレのデレは判るがツンの所以がわからぬ。
君は!そのままでいいんだよ!といいたくなる人物が少なく、そしていいたいことは大体竜児がいつかきちんと代弁してくれるという。ある意味、水戸黄門的構造の安心感や小気味のよさが抜群ですが、安心するために読んでる訳じゃないんだよなあというか。
なんていうんでしょうね。

前述の補足。
ラノべ作法については非常に「プロレス的」という印象を持ってます。
技の掛け手と受け手の息が合ってこその芸術という感じ。だからいろんな記号的技法やお約束の積み重ねで、書き手と読み手の共犯関係を強化してゆくような、内輪受けとも取れる技が基本の型になった剣術みたい。

前回エアタグの話を少ししましたが、想定されている読者層がはっきり見てとれるような文章というのは、例えるなら、左利き用にデザインされた鋏を見るような美しさがあります。
それに相対した時に僕らがとるべきリアクションは「どうして両利き用に作らないんだ!」ではありません。合わなければ「残念だが僕は右利きだ」と呟くのみにとどめるべきです。
お恥ずかしい話ですが、小説読みの中には、いまだにオタ文化はハイカルチャーに対するサブカルチャーだという認識のような人が残っています。ですがそれは単純に、読者として想定されている人への評価を、作品に転嫁させているように見えます。

話がそれ続けていますが、つまり、普段行かない森にはウニとか落ちててすごい。