いっけねぇ

とりあえずは、ごめんなさい。
久しぶりに初手から謝罪で始まります本日のざるつー。気を遣わせてしまって本当にごめんなさいの日なのであります。

先々日のエントリーにおける、わたくしの「いっぱいいっぱいアピール」が、id:zidrakさんのコメントに端を発してのメランコリックであるように読めてしまう問題について、まったくの誤解でありますゆえ、断っておこうと思います。
これはー、そにょー、それとは別に、具体的にはここに書くのがはばかられるような問題を目にしましてー、それについて何か言おうとしたけれど言えなかったよ、というだけの話だったんであります。コメントに対してはぜんぜんストレス感じたりしてません。

「自分と違う人」とどのように接してゆくか、という話題について考えるのは、別に特殊事例の処理方法を考えることではなく、自分の生き方の根本的なスタンスの問題と向き合うことなんだよなあ、と思っています。
障害のある人とどのように接するかという「特殊な」問題ではなく、自分が「他者」とどのように接するか、という一般的な問題。そのせいか、なかなか簡単には書けないでモゴモゴしておる次第です。こういうのこそ、小説や漫画でひとつのやり方を書くといいんだろうなあ、と思うんですがともあれ。

僕個人としてはzidrakさんの姿勢に対して含むところはまったくありませんし、残酷さをうつくしいと思うかどうかと、許せるか許せないかはまったく別の問題ですので、許されるならば、どうか今後とも、忌憚のないやりとりをさせていただけたら幸いです。

個人的には、憎んでもしょうがないものについては憎むだけ疲れてしまうので、時間の流れとかそのようなどうしようもないものよりも、もっと変えられるものや打ち倒せるものを憎んだり、あるいは戦ったりしたほうがよいのではないかなあ、とは思いますが、憎むのはやろうと思ってやるものでも、止めようと思って止められるものでもないので、仕方ない話ではあります。
障害の軽重によって差別があるという問題についても、そこは人間の業のようなものだなあ、と思います。
僕も以前、はっとしたことがありました。
いつだったか。障害があるけれど一生懸命努力する人は凄い!というタイプの美談がもてはやされていた頃だと思います。そのような風潮に対して、名無しの障害者が、「一生懸命努力しない障害者は、存在しちゃいけないのか」というような、けっこう重たい問いを投げたのを目にしました。

意識のフィルターというやつは厄介で、困難を乗り越える人を凄い、と思うことは悪いことではないんだけれども、それが裏返って、「困難は乗り越えなきゃならないんだ!」などと、人を追い詰める方向へ向かってしまうことがあるんですね。僕などは修行スキーですので、困難を抱えて乗り越えることに生きる実感を見出したりするのですが、それを人にまで強要しちゃいけないよな、と思ったのです。
ええと、話題逸れました。
だから、障害者の子を持つ親だからといって、すべてに達観した存在でなければならない、ということはなくて、そのような、ちょっと如何なものかなあ、というところまで含めて人間なんだよなあ、と思うのです。
もっとも、だから許してやれというわけではないんですけども。

このタイミングと話題の流れで紹介するのが正しいかどうかはわからないんですが、最近、id:satomiesさんという方の日記に行き当たり、ずっと遡って読んでました。ぜひ読んでみてください。
特に最新の、id:satomies:20091127のエントリなんかはすごいシンプルでいい、と思います。同じことを経験したとしても、とても僕なんかにはこんなにシンプルに書けないと思うんです。
やはり大事なのは、支援を必要としている子供たちに対して、本当には何がしてあげられるのか、というところだと思います。
それは、例えば周囲の無理解をどうにか解きほぐすことだったり、もっと直接的に、何かを教えてあげることなのだと思うんですが僕は、こう、今の立場では口ばっかりで、身近なところではzidrakさんにエールを送ることくらいしかできません。
もっと壮大な口ばっかりになって、僕の物語で世の中を変える!とか言えたらかっこいいんだけれども。

とりあえず今度音々ちゃんの絵を描きますねおんねおん。