手動ツイート。

結局、お手軽言うても、発信には変わりませんね。
という訳でいまからわたくし、高尾山行の京王線なう。人として生きてゆくやり切れなさに耐えられなくなったので、一度、御山へ帰ります。

ナイフでの狩猟が銃に変わったように、戦争が機械同士でやるように、格闘技に判定勝ちがうまれたように、HTMLタグ打ちだったサイト更新はCGIにかわり、blogはtwitterにと、どんどん要点だけを素早く簡素に放流する方向に進んでいるような気がします。
行間イズデッド、神とかは死んだ。
次は、辞書みたいなツールから言及したいキーワードと感想と語調を、スタバのオプションを選ぶみたいにぽちぽちクリックするだけで、適当に補遺してAAなんかを織り交ぜつつ、コピペ改変のチョイスを間違えず、時流に乗ったblogっぽくしてくれるツールとかでるんじゃなかろうか。

でも、狩猟はただ肉を得る手段だけだったんだろうか。その経緯は、めんどくさかったり、危険だったり、省略できるならば省略してしまいたいような瑣末なことだったんだろうか。
wwwは文字でできているけれど、いつか、人が文章を書くということから解き放たれるために作られたものだったろうか。自分だけの文章を書くということは、情報の伝播には、むしろ邪魔なことなんだろうか。

新しいものや時流に対抗して旧態保守を叫ぶのも違うし、迎合してすり寄るのもただの条件反射だ。
自分の書くものが、違う価値観のものと争わなければならない、勝たなければ負けて消えてしまうと感じる自分の弱さが、なによりも自分を蝕むものだ。

ここに争いはない。どこにだって争いは自分で作り出さない限り、ないのだ。
アクセスカウントや検索エンジン上位という概念が生まれたときから逃れきれない感覚、無視するか押さえ込むしかない「比べる」という感覚こそが、人間の社会というものだと考える。その舞台に乗るかどうかは、心の持ちようだけではちょっと難しい話だ。比べるのは、占いと同じくらいにそこら中に溢れ、僕らを逃そうとしない。

僕らはまったく正しい意味で、天狗であるべきなのだ。お山の天狗であり、井中の蛟であるべきなのだ。
自分と、自分のみているもの、自分の作るものに客観的な判断などできはしないのだ。
ならば、僕は僕がよいと思うことをするしかない。
人に受け入れられずにのたれ死ぬとしたらそれはそれで、仕方のない話。
なにを恨んでも、仕方のない話なのだ。

というわけで、高尾山口なう。曇天なう。神通力なう。