私信。

関連エントリを全て読んでないので、やりとりの内容ジャッジとかは得意な人に任せます。

っちゅわけで僕には僕の、書けることだけ。これはとても個人的なエントリ。個人的で、ほとんどの人にとっては、なんのことだかわからないゆえに、もしかしたら一般的なことになるのかもしれないエントリ。
伝えたいのは、書く、ということについてです。
このエントリを書いて、自分はどうしたいのか、ということです。僕はものを書くうえで、情動というものを重要視しています。自分の行動の原動力がなんなのかを把握しないと、足を踏み外すように思うからです。
人の言動に対するレスポンスの性格は、大きくわけて三つのように思います。

1・相手の反応を求めるもの
2・自分の行動で完結するもの
3・反射

最初のは、つまり、わかってほしいとか、こうしたらいいのにとか、はたまた、ずったずたに傷付いてほしい、どうか元気を出してほしい、そういった、負も正も含めて、とにかく相手のレスポンスをもって完結するものです。
二つ目は、相手の言っている内容ことを理解したいとか、自分の名誉を守りたいとか、言ってスッキリしたいとか、その辺りの、コミュニケートの最後が自らの行動で完結するものです。
反射はいわずもがなで、売り言葉と買い言葉や、花を見て美しいと思うとか、そういうことですね。

言葉が口から出てしまう前に、それがどの情動に根付いているものか、把握するというのが、理性というものではないかと思うのです。

相手に謝ってほしかったのか、わかって欲しかったのか、殺してでも相手を黙らせたいと思ったのか、とにかく殴りつけたいと思ったのか、拳を振り上げる前に考えるべきだと思うのです。その情動の内容によっては、拳を振り上げてしまったせいで永遠に叶わなくなってしまうこともあり、逆に、振り下ろせなくなってしまうものもあると思うのです。
自身で制御できるものを増やして行くこと。それでいて、花を見て美しいと思うことや、体が勝手に動くことを止めないように生きること。過ぎず、及ばず、動きながら、変わりながら生きるということ。僕が最近思うのは、そのようなことです。

僕が何を求めてこのエントリをあげるのかという問題についての答はこうです。
幾許かの自戒と、そして、あなたのクールダウンするための手助けとなればよいな、と思うのです。コメントつけに走ってゆかないのは、別に落ち着くのが最善の策ではないと思うからです。同様の理由から今回はトラックバックもなし。

相手になにをしてほしいのか、そして、そのために何をすればよいのかということを考えると、そのコメントをつける意味があるかないかは、なんとなくわかるものではないでしょうか。
腹が収まらぬなら気の済むまで争うのもよいとはおもうけれど、せっかく自分のブログがあるのであれば、そちらで自分の考えを深めてゆく方が有意義な気がします。
でも、人を殴ると決めたなら、とことんやらなきゃならない時もあるわよね。今がそうかどうか、わたくしには分からないけれど。
それは、きっと他の人にはわからないことだから。