あなたの

oberon2010-06-29

午睡からさめ、台所で水をのんだ。薄暗い食卓の脇に、瓶が幾本か並べておいてあるのが見えた。
あなたが好きだった、ラベルの蒐集用にとってある珍しい酒瓶たち。
水切り籠にはあなたが好きだった梨が、ごろっと三つばかり洗って置いてある。

あなたの姿は見えないが、どこかに出かけたか、庭にでもいるのではないかと思いながらわたしはもう一度、長椅子に戻る。

夕方の光は淡く、台所の隅はもうすでに暗い。
すこし風が出てきた。
開け放しの居間は、とても静かだ。まるで時の止まったよう。
そうか。
わたしは不意に思い出す。あなたはもう、いないのだ。あなたの痕跡を残すこの家は、しばしばわたしに幻を見せる。

あなたはもういない。
あなたは死んでしまった。
あなたがいないから、わたしは一人きり、家のなかで生きているのか死んでいるのか、つづいているのか終わっているのか判らないまま、午睡の中にいる。

どうして忘れてしまっていたのだろう。あなたのことを、あなたが死んだことさえ。
こんなことなら。
もっと、あなたにやさしくしておけばよかった。
もっと、あなたの姿を覚えておけばよかった。
もっと。

もっと、

わたしはあなたを思い出す。思い出そうとする。
その笑顔は、若く、美しかった頃のものだ。わたしもあなたと同じように若く、その時間の切なさをまだ知らない。

そして、その頃から積み重ねた時間を、積み重ねたはずの時間を、わたしは、うまく思い出せない。

わたしはもう一度目を閉じる。夕刻の風が、長椅子を撫でる。あなたが選んだレース編みのカーテンが揺れる。

そしてわたしは戻ってきた。2010年に。
もう一度、もう一度と。繰り返すが繰り返さない時間を記憶するために。あなたがいつか死ぬ未来を受け入れるために帰ってきた。

わたしはあなたの横で目を覚ます。あなたを起こして、わたしはあなたを確かめる。今度こそ、今度こそ。わたしは行ったり来たりしていることを話さない。あなたにだけは話さないと誓う。
あなたは言う。
怖い夢を見たんだね。
わたしは頷き、あなたの服で鼻をすする。そしていつのまにかまた、眠ってしまう。

もう一度、もう一度と繰り返し生きる。