旧い人

ずっと昔に約束した事をふと思い出した。

頭を、撫でられた事がある。
「大人になるまで覚えていちゃいけないよ」と僕を撫でたその人の、名前と顔だけがどうしても思い出せない。言いつけどおり、僕は覚えていなかった。
だが、忘れていたということを、大人になった今、思い出してしまった。これは約束を守ったことになるのだろうか。ギリギリセーフか。

そして僕はその人のことを思い出そうとする。
大きな、つばの広い帽子から垂らされた紐は思い出せる。僕の頭を撫でた掌が、少し不自然なくらいに白くて、いやだなとおもった事も思い出せる。その声。思い出せる。かすれたような、しゃがれたような声。
あれは夏の日のことだ。富士の実家に帰っていた時のことだ。

「そいつは、わたしじゃないぞ」

不意に旧い人の声が聞こえた。さすがに驚いて見回すが、姿が見えない。

「訳あって、日が変わるまで姿を見せられないけど、聞きたまえよ」

今度は声が背後に飛んだ。

「きょろきょろするなよ、みっともない。ああ、とにかくそいつはわたしじゃないからな」
どこにいるんです。いったいなんなんですか。
僕は少しうろたえ、とりあえず入り口の扉を見つめる。旧い人の声はどうも、場所が定かではない。
「いいかい、高橋くん、そいつのことは忘れちまえ。それで、どうしても忘れられないなら、その時は」
旧い人の声が、また、ぶんと遠くなる。息継ぎの度に、小さくなるような声。
「いいや、いいから、絶対思い出すなよ、絶対だからな」

旧い人の声はそれっきりきこえなくなった。日が変わっても、聞こえてくることはなかった。