旧い人に飲まれる。

「女くさくなったね、君はさ」
帰り道、公園でコーヒーを飲んでいたら不意に声をかけられた。旧い人だった。
転職したんです、と肩をすくめるとふわっと柚子の香りがした。
「いい匂いだろ」
そうですね。
「で、どうして転職すると女くさくなるんだい」
相変わらず旧い人は言いたいことだけを、言いたい順番で話す。ようやく慣れた僕は少し懐かしい思いで旧い人の影を眺めた。
新しい職場は、女の人ばかりなんですよ。大きい会社だから、社員も何千人といて、大変です。
「そうかいそうかい、なら一人くらい居なくなっても分からないね」
旧い人はくすくすと笑った。何となく不穏なものを感じての反論。
やっぱり、隣の机の人が急に来なくなったら気にしますよ。どこまで行っても、人は何人かのまとまりで居るんですから。
「そうだね、それはそうかもしれない」
そうですよ。
「でも、逆に一人増えたとしたら気付かないかもしれないね」
僕は黙った。
「あのね、君。変なのが紛れ込むのは、むしろそういう中なんだよ。そういう連中は、目に見えるように人を喰らうわけじゃないんだぜ」
言われて初めて思う。
あの大きなビル。
「入った数と出た数、毎日本当にぴったり合うものかな?」
冬の公園は寒い。僕はごった返す社員食堂を思い返す。同じフロアにいるのに名前を知らない同僚。どれだけの人を知ることになるのだろう。でも、やっぱり全員は無理だ。数が増えるとやはり途方もない。
「何か変なのとすれ違ってるみたいだからな、君のにおい。せいぜい見つからないように気をつけろよ」
旧い人は眉を顰め、軽く睨むようにして僕の隣に腰を降ろした。

「ねえ、そのコーヒー、わたしにも一口くれないか、と聞いたらどうする?」
あげますよ、コーヒーくらい。
「ああ、ああ、だから気をつけろって言ってるんだよ、君のそういうところ」
えっ。
「得体のしれないものに、ものをくれてやる癖、だよ」
旧い人は身を捩るようにして、悩ましい声を出して消えた。旧い人が見えなくなるのと同時に、まだ残っていたはずのコーヒーの缶が不意に軽くなった。
そして手の中からふっと香る柚子。残りのコーヒーはどんな味になっているのだろう。
でも、これを飲んだらまた怒られるのかな、と旧い人の形のよい唇を思い出した。君、君、わたしの忠告をいきなり無視から入るのはやめろよ。得体のしれない飲み残しなんて、知らないぞ。わたしだったらぞっとするな。知らないぞ。知らないからな。
怒っている口調なのに、やけに楽しそうな顔が浮かぶ。
缶は空っぽだった。一口って言ったじゃないか。僕は呟き、家に帰ることにする。

今シーズン、初めて北海道に雪が降った夜のことだった。