配慮が芸術を殺す

自分の感性が鈍ってるなあ、と思うことが最近多いです。なんだか、あまり傷つかなくなったし、人を傷つけようと思うことが減りました。処分保留ゾーンが馬鹿でかくなってるみたい。僕の地球をどうするんだよう!

年をとり、なまじっか世界が広がると、現状を拒絶したり否定したり、負けないぞ、と力を込めたりしなくなるように思います。
暴れなくても生きていけるしね。死なないしね。世界はここだけじゃないし。これはこれで。我慢できないほどじゃないし。ここの勝ち負けはたいして重要じゃない。リスクに対して得るものが少ない。争っても得がない。などなど。
なんかどれもこれも言い訳めいてる。げんなり。げんなりげんなりげんなり。

色々なものをテキパキ片付けて、もっと身軽に生きるべきなのに。

今の僕は文学的に生きているかと問われたらちょっと黙っちゃう感じ。今、ひたすらにのったり、野暮ったく生きてる。受けを広く、取りこぼさないように、あと、なるべく嫌われないように。目立たないように。
これは配慮ではなく、ただのものぐさなのだけれど、配慮にとても似ている。

配慮が芸術を殺すんだと思う。
配慮が横行する世の中で、僕は軽く死にかけている。

剥き出しの憎しみや嫌悪をぶつけられると戸惑う反面、「この人、僕の何をそんなに嫌ってるんだろう」などと、つまらないことを考えたりする。あなたが目にする僕の動きで、僕がしたくてしていることは一つもないのに。
だからあなたのその憎しみは僕の芯を貫かない。どこにも響かない。
やるからにはきちんと傷つけ、傷つけられたいと思っているのに、あなたがたは出来の悪いロジックばかりを振りかざす。それは僕の胸を打たない。そのロジックの粗ばかりが目立つ。
それをぶっ壊してやれば、本当のあなたが顔を出すかというと、それが案外そうでもなかったりする。やる気を出して戦ってもあなたも、そして僕も傷つかない。そこには何も残らない。ロジックが壊れたことすら残らない場合がある。

僕は疲れ、時には挑戦することすら諦める。あなたがたとわかりあうことを、放棄する。
僕の感性は少しづつ、あなたがたを切り捨てながら鈍磨してゆく。
ああ、つまんないなー、と思う。友達が減っても傷つかなくなったことは、精神の大きな瑕疵だと思う。それはタフになったんじゃない。鈍くなっただけなんだ。