いじめについて(2)

だいぶん時間が空きました。
誰が壊したのか分からない自転車、誰が捨てたのか分からない体操着、エトセトラ、エトセトラ。
その怒りを、悲しみを、やるせなさを誰に向ければよいのか分からないあなたはどこに向かうべきか。
そんな話でした。

さて僕は、実のところ暴力があまり嫌いではありません。むしろ直接的なものはシンプルで好感が持てるとさえ思っています。「暴力」という言葉の響きに引っ張られないでください。それは「一方的に開始出来る物理アプローチ」です。もっと視覚的に言い換えると「手を伸ばすこと」です。殴るのか、支えるのか、撫でるのか、繋ぐのか。ともあれ我々は手を延ばします。アプローチすること自体を目的としたとき、それは善悪や正邪といった不純なものを削ぎ落とします。
その意味では音楽は暴力の一種です。それは耳を塞いでも入ってきます。両手のない人は耳を塞ぐことさえ出来ず、ただ一方的に音楽に蹂躙されて心震わせ、涙を流すしかないことだってあります。音楽が暴力の一種なら、片思いだって暴力です。相手の同意がなくとも好きになれるのですから。何とも思っていなかった相手から手紙を貰って、こんなに心が苦しくなることがあるでしょうか。こんなに嬉しいことがあるでしょうか。

僕は、暴力を「手段」として行使したくはありません。言うことを聞かせるために殴る、眠らせないために音楽を響かせる、財産を得るために求婚する、など、それらは全て、暴力の意義を、他の行為より一段低く見積もったやり方です。そこに美しさはありません。でも、そんな人が多いから、「暴力は卑しい」「暴力は一段下の手段だ」と誤解されているのだと思います。しかし、重要なのは、「なぜ暴力を行使するか」ということです。我々のこの衝動はどこに起因するのか。その衝動に素直である限り、僕は暴力を否定しません。ですが、自分にとって好ましくないものである場合、自分の暴力でもって抵抗をします。これが、僕の「報復」です。

あなたは一体誰にどのように報復をすればいいのかという問題でした。
結論から言えば、誰に報復したって構わないのです。報復というとレスポンスのように聞こえますが、顔の見えないいじめっ子への報復は実は、レスポンスではなく新規ツリーのアクションです。
あなたは、こいつが関わってるんだろうな、と思う相手に対して問いかけることができます。その答えを信用するかしないか、自分で決めることが出来ます。そして拳を固めて殴りつける自由も持っています。
大事なのはたとえ無関係な相手を殴ってしまったとしても、「間違えたから悪い」のではないということなのです。逆にいえば、「関係者だったから正しい」というものでもないということです。
この世に「正しい報復」は存在しない。これはもっと広く言い換えることも出来ます。
「完全な正解」は、どこにも存在しない。「許されないこと」はどこにも存在しない。あなたは何をしたっていいし、それは他の人も同じこと。

僕があなたに強く告げたいのは、この一点です。あなたは多分、漠然と「いじめは間違ってる」と感じているんじゃないでしょうか。でもそれは違います。つまらない行為ですが、別に「許されない行為」ではないです。過去、自然災害がたくさんの人の命を奪いました。ですが、それは「許されない現象」ではありません。間違ってもないし、正しくもないです。
ただ、起こっていて、ただ、続いている。それだけのことです。

あなたがいじめられているのは、極論すれば、不意に夕立に降られたようなものなのです。なんの因果関係もなく、なんの善悪もなく、なんの意味もないのです。
ですが、あなたはいつまでもそうやってずぶ濡れていているのですか?傘を貸してくれる人はいませんか?雨宿りできる木の影はありませんか?せめて、少し歩き出してみてはどうですか?
その選択肢の中に、途轍もなく大きな扇風機で雨雲を吹き飛ばすのも、雨雲にミサイルぶち込んで霧消させてやるってのも全然オッケーなアイデアです。
そして、そのアイデアを実行に移すときに気をつけなければならないのが、今言ったとおり、その全てが「あなたを起点とした新規ツリー」だということなのです。

僕がいう「報復」とは「帳尻を合わせる」行為とイコールではありません。
コールアンドレスポンスであれば帳尻は合うかもしれません。パンチに対してその場でキックで反撃。いいでしょう。
ですが、あなたが直面している「顔の見えないいじめ」は、少し様相が違うのです。
あなたは、降り止まない雨を止めるため、雨を降らせている怪物に会いに行くのです。「雨を降らせる怪物を倒すため」に旅に出るのではありません。
結果的に、怪物を倒すことで解決することも大いにある話です。むしろ、それが一番手っ取り早いのかも知れません。ですが、それは「唯一にして正しい解決」ではありません。ただの、無数にあるメソッドのひとつでしかないのです。

「相手が間違っている」から「何をしてもいい」のではないということを忘れないでいてください。自分が受けた傷と同じ目に遭わせてやることは、正当な行為というわけではありません。あなたが「何をしてもいい」のは、何か絶対的な存在から許可が下りたからではないのです。あなたも、僕も、そしていじめっ子たちも、最初から「何をしてもいい」のです。誰を巻き込んでもいいのです。
そこに正解も不正解もありません。ただ、アクションがあって、そのアクションが世界と自分に影響を与えてゆく話。無数のアクションのうち、どれを選び、どれを実行してゆくかという選択のひとつひとつが、「自分」という人間の形成をしてゆく話。

これは個人的に思うだけなのですが、悲しくて、そして怒って、発生源に復讐パンチを食らわせたとしても別に、僕の感じた悲しみも怒りも消えないですよね。前回少し書いた「容認することが同罪」という観点からしても、原動力は「意味なんてねえと思うが、けじめだからな。今からお前に、ちょっとばかり刻ませてもらうぜ」というスタンスでなければなりません。
あなたは、復讐の前に自分の感情と折り合いを付ける必要があると思います。

そんな訳で月並みですが、顔の見えないいじめに対して、まずあなたがすべきことは、味方を作ろうとすることだと思います。助けて、と声を上げることだと思います。味方でなくともいい。あなたを、虫ではない、一人の人間として見てくれる人を作ることだと思います。
困った時に「助けて」と叫ぶことで崩壊する人格モデルなんてものは、ラオウウルヴァリンくらいのものです。だから、あなたがそういう人格モデルを目指しているのでなければ、気にせず声を上げて構いません。
もちろんあなたも、その人を「知りたい」と思うべきです。一方的に「自分のことだけ分かって!」というのは、少しアレです。つまりあなたは、誰かと、「知り合う」べきなのです。

例えばあなたは、無くなった体育着を買ってくれた人の話をすることができます。両親とどんなことを話しながらサイズを選んだのか、一緒にどんなものを買ったのか、洗濯して畳まれた体育着の手触りがどうだったのか、あなたは話すことができます。
例えばあなたは、壊された自転車でどこへ行ったのかということや、色や形や値段を考えて選んだ時のこと、ペダルを踏みながら感じたことを話すことができます。休日に磨いて綺麗にした思い出も話すことができます。
それでも誰も、あなたの悲しみを分かってくれないなら、聞いてすらくれないなら、その時は仕方ありません。あなたは、彼らを見限って手を伸ばすことを止めても構いません。もう少しで届くかも知れない、と続けるのも構いません。

ただ、あなたの居場所がそこではないことだけは覚えておいてください。あなたの周りの人々は、あなたと同じような顔をしていますが、まったく別種の生き物なのです。どちらが悪いもありませんが、あなたはさっさとそこから出なければなりません。卒業まで待てないなら転校してもいいし、辞めちゃって何処かに入り直してもいいでしょう。会社だってそうです。そこ以外にも生きられる場所あるよ。死ぬよりは全然ましです。
自分のいるべき場所でない所なんかで追い詰められて死んでしまうなんて、本当につまらない話です。海水魚が川を遡上して死んでしまうようなものです。我慢でどうにかなるものとならないものがあるのです。淡水魚がどんなに説得されても海水で暮らせないように、あなたも淡水では暮らせない、それだけの話なのです。
学校は、たしかに汽水湖であるべきです。でも「卒業したという資格」を手に入れるべく通う場所ではありません。それが欲しいだけなら大検もあるし、義務教育なら転校したって構わないのです。
学校というのは、「人と出会うための場所」なのです。我慢して通って、誰とも口を利かずに何年も過ごすことにあまり価値はありません。バイキングに来て、お冷やだけ飲んで帰らなきゃならない道理はないのです。そりゃ、そういう過ごし方を止める法はありませんが、あまりにももったいないのです。

なんか、ごちゃごちゃしてきたのでシンプルに言い直しましょう。だいぶ意味合いは違うのですが、世間一般の大人の言う「いじめ対策」に近くなると思います。
①誰に向けていいのか分からない悲しみ、怒り、やるせなさは、誰にも向けないほうがいい。もちろん、自分にも。だって「わかんない」んでしょ?
②自分の責任においてする限り、何してもいい。誰も「正しい」とは言ってくれない。でも何してもいい。
③何をするにしても思い切れない時は、誰かと知り合って話すといい。何か新しいものの見方が身につくかも。分かってもらえるかも。
④誰とも話が通じなかったり、そこで絶望したら、とっとと逃げちゃえばいい。そこはあなたの居場所でなかっただけの話。

あなたの命はあなたのものなので、基本的には勝手にしやがれなのですが、僕は自殺という選択肢は本当につまらないと思っています。
いいじゃないの、物語が続けば。いつかいい日があるのです。