無礼と嘲笑

政治的なことには中立な立場でいるようにしている当Blogですが、山本太郎については少し書き残しておきます。

結論としては、相手にしてはいけない、というのが最終にして唯一の答えだと考えています。ありゃ今や、人を模した野の怪異のようなものです。一言でいって厄介で、ある意味最強です。
己の心を守る仕組みに綻びがありません。だから、半端な手を出してはいけないのです。

彼は己に向けられた害意、敵意、悪意、全てのものを「原発推進派が、原発否定派に向けたもの」を「象徴たる自分に代理で向けられている」と認識することによってダメージを受け流しています。
なおかつ、原発否定派を「弾圧された側」と位置付けることによって、敵から受けた攻撃を殉教トークンに変換し、己のやる気をブーストすることにも成功しています。

これは、被害妄想の拡大再生産と全く同じシステムです。完成されたシステムは、リアクションとアクションを区別しません。感想と批判、誤解と中傷を区別しません。認識できるもの全てを白と黒に塗り分け、白ならば養分にして黒ならば装甲に塗り込めてしまうのです。

だから、今の世の流れの山本太朗叩きは、本当に良くないことだと考えています。あれが病状だとすれば悪化するだけだし、言論システムだとしたらこの先に残るものは何もありません。後味の悪い結果にしかならないことを保証してもいいです。そこに止揚は一切ないです。

考えればすぐに分かることなのに叩きが止まない理由を考えているのですが、実際のところ本当の義憤で拳を握っている人はどのくらいいるんでしょうか。
不敬に対して制裁を加えたいのであれば、叩くよりも嘲笑する方が深刻なダメージを与えられるのではないかとも思うのです。

礼儀知らずは許せん!謝れ!と怒鳴るよりも、あらまあこんなことも知らないの、かわいそうねえ、と形だけ頭なでて二度と呼ばない、の方がキツい対応だと思うんだけど、どうなのかな。
どうにも僕は、今の世論の勢いが分からないのです。許せないの、チャンスやりたいの、どっちなの、と思うのです。仮にどちらだとしても、対応がマズすぎるんです。意味がないのではなく、効果がないんです。ことによっては意味すらないです。

目線を少し変えて、何故、不敬と非常識をここまで叩きたくなるのか、ということを考えてみます。
僕の好きな例えでこんなのがあります。

「1+1=5だよ!」の間違いに正面から食ってかかるやつは「1+1」の答えに自信を持ってない

争いは同じレベルでしか発生しないというのに似た格言ですね。山本太郎個人に対しての評価が一言で終わらないのは、個人以上の何かに対してもの言いたいか、同じレベルかのどちらかだと思います。
ともあれ、一利もないこの騒動、遠目に眺めるならいい見世物ですが、ちょっと悪趣味と野暮が過ぎるんじゃないかしら。