朝が来る

理詰めで人を否定すると、その人を全否定することにどんどん近づいてゆくように聞こえる。
だから(理詰めで考えると意味のあることではないけれど)その人について、些細でも評価すべき点を押さえ、否定する点と関係のない事柄であっても同じセンテンスの中に含めるよう気をつけなければならない。

僕は基本的に人を否定することはなく、その代わり否定する時は殺し合いも辞さずという比較的過激派に属する性分のため、誰かを否定することに慣れていない。慣れていないはずだった。慣れていない、で良かったのだ。

ながく人の世に身を置き、少しずつ、角を立てずに人を否定するやり方を身につけてしまった。うまい人の傷付け方を覚えてしまった。死なない程度に傷をつける手加減が染みてしまった。
こんなものは削ぎ落とさなければならない。
僕の愛する「人間らしさ」とは、迷い、悩み、人を傷付け、苦しむ、そんな、愛すべき泥臭さでなければならない。小器用に、人を傷付けずに軟着陸を試みる技であってはならない。
天狗は天狗であるべきで、人の真似をしたって何もいいことなどありはしないのだ。

朝が来る。
朝が来た。僕はジェントルディザスター。静かな自然災害。自分が関わることで永遠に変えられてしまうかもしれない森の風景に、心を痛めているうちはただの災厄でしかない。変わらないものなんて、何もないのだ。手加減する方が、よほど失礼というものなのだ。