今週の

罪と罰」に複雑な思い。

不意に冷める心であります。今までの人生で幾度か経験してきた、諦念の押し付けと自己弁護に似た無為論を思い出したのであります。作中の中村課長の告白に、怒りや残念、意外感はなく、ただ、べつの生き物を見る気持ちだけがそこにありました。
共感はできないし、反感も別になく、僕の心を欠片も掠らない言葉だけがそこにありました。ああ、僕はコミュニケーションを目的としない言語に厳しいんだなあ、と再認識するこのアパシー

己以外に話を広げる諦念は、人の底を見せてしまうと思っています。そこに留まり、蹲り、どこへも行かなくなる人を幾人か目にしてきました。
「人間ってものはね」
「社会ってものはね」
「創作ってものはね」
「夫婦ってものはね」
それこそ六十億のケースバイケースがあるだけです。動くのを止めた人を見るのはただひたすら残念なだけですが、彼らは彼らなりに負い目のようなものがあるのでしょうか。それとも、ただの承認欲求なんでしょうか。
人の歩みを止めようと、呪詛のような、引きずりこむようなことをぶつぶつつぶやく人のなんと多いこと。
でも僕も僕で、比較的ゴア寄りの人間なので、呪詛には大鎚で応えるしかないのがなんともアレです。
げにひとのよのコミュニケーションはなんぎよな。