文学フリマでもらった本、買った本。

けっこうたくさん買った気がするのだけれど、実際取り出してみるとそうでもなかったようです。そして、ずらあっと続けて色々読んでいるうちに、なんとなく本と本のあいだをまたいで思ったことなどがあるのが不思議でした。
だもので、そのあたりの事情も含め、買ったもの全冊レビューを決行!
…という企画を先週19日にやったのですが、それの改訂リンクつき版ということで再録です。

皆思ったよりセックスとか好きなのかしら?

や、まあ、つまり端的に申し上げますとそういうことなんですが、まずは誌の本、『雑詩』(2004年3号)『アイアイちゃん』『h』の三冊。
順番としては、並べたとおりの順番で読んだのですが、どの本も、どこかにセックスについての言及がなされているんですね。『アイアイちゃん』は花町に売られてしまった女の子からのメールを描いた漫画、『雑詩』の中の多数の詩にも、『h』にも端的にそれ自体を指す語が含まれているというか、なんと申しますかそれがすべてって訳じゃないんですけど。
先日、マイヤヒーについて教えてもらったときには、リンク先上段の外国の子が舞い踊るプロモパロディを見ながら、「外人も中学生くらいだとやっぱチンコチンコって言うだけで楽しいのかあ、同じ人間だなあ」とか思ったのですが、それとはまた違うベクトルで詩の中に現れる直接的表現について、少し考えていました。そこに意味があるのかないのかはよく分からないんですが、たぶん、詩を書く人というのは中学生がチンコチンコ言ってげらげら笑うのとはまた違う意味で書いているのだろうし、それについてどうしたら僕は理解することが出来るだろうとか、考えながら読んでました。
僕は一時代前、よしもとよしとも山本直樹が元気になっていた頃に学生時代をすごしておりまして、その頃の大学生の人たちが書いたものを読んだりもしていたのですが、どっかの先生が言った言葉、なるほどう、などと感心したりしていました。何かっていうと、
「きみたち、男と女が一緒にいたらすぐセックスさせるんだな!」
いわれてみるとそういう傾向ってあったように思うんです。
別に、セックスを描くことが悪いとは思わないんですが、たとえば格闘描写(どっちの手で突いてどういう風に避けてどういう風に反撃して、とか)が詳細に書いてあれば「この作者はたぶん格闘とか好きなんだろうなあ」と思えるのに、チンコマンコ書いてある詩を読んだ時に「この人はすごくチンコとか好きなんだろうなあ」と素直に思えない理由はなんなんだろうって思うんです。でも、多くの人が書く以上何か理由があるんだろうし。そういうことなどを思い出しながら読みました。ちなみに結論は出てません。誰か教えてください。
『雑詩』の中ではミキさんの「光線」が面白かったです。その前のふたつはよく分からなかったんですが、これは最後の改行が(比喩的な意味でなく)すごく光っている感じでした。あとは巻末漫画の「今日の戦車」のコマがものすごく面白かったように思います。すごい語感。『h』は巻末の「ディグダグ」が傑作だと思いました。個人的に大好きな「パンクでポン」とか思い出した。緩急だと思います。『アイアイちゃん』については態度保留です。記憶にはすごく残るけれど、それがなんでなのか、なんなのかはちょっと分からない。

たくさんの人が書いている。

続いては若木文学分冊』(2004年特別号)『月に負け猫』(3号)の二冊。同人誌というか会誌というか、つまり個人誌でないものについて。
若木文学のほうは國學院の学生の人たちが書いている本のようです。…という事前情報があったので、僕の色眼鏡も少しあるのかもしれませんが、大学生らしい話が多かったように思いました。
特にこの本の中ではやはり巻末の「耳」がたいへん面白かったんですが、主人公が書いたレポートの内容や実験の内容について一切触れられていないことが気になりました。物語の最後で、教授が主人公に対して繰り返し言っていたことの種あかしがされるのに、具体的にそれが何を指すのか分からないというのは少し残念のように思います。医学生と言っても外科なのか、内科なのか、どんな内容の研究をしているのか、そういうことを、たとえ門外漢にはちんぷんかんぷんの描写だったとしても説明してくれると、もっと結末が胃におちるんではないかと思いました。
以前、観念SF*1というカテゴライズが(自分の中で)流行したことがあって、それ以来「観念○○」と名づけて何かを呼ぶことが多いのですが、この場合は一歩間違えると「観念医学生」になりかねないな、と思ったのですね。主人公が医学生である背景のリアリティがうすいというか、若干記号的というかなんというか。でもこれは小説自体の出来がものすごくよかったから逆に目立つ気がしただけで、ええと、けなす意図とかはないです。あとは、ペンネームに振り仮名を振ってくれるとうれしいと思いました。
そして『月と負け猫』について。こちらは、幾人かの人が書いている本のようだということで購入。どんな人がどういう縁でつながって同じ本を作っているのか興味があったんですね。売り子の人に聞いてみたところ、本当にさまざまな人たちが集まっているということなので購入。
ひときわ目を引いたのは「*−hole−」でした(タイトルの漢字の出し方が分かりませんですみません。穴かんむりに「告」の字。あなって読むのかな)。僕も日々働いていて、考えたり考えなかったりすることが多いんですが、その中のいくつかのことを掬い取って、嫌味なく理想的な形で構成しなおしたらこういうものになるんじゃないかと思わせる小説でした。あらすじや舞台設定それ自体に魅力があるわけではなくて、ディテールにいろいろなものが凝縮しているような、とても面白い作品でした。
それからもう一つ、「希望に満ち溢れた詩」にも少し興味を惹かれました。一般の大学生男子ってエロ本とかAVとか貸し借りするものなのかしらっていうかエロ本を共有するのはある意味男子二人が一緒にユニットバスの風呂入るよりディープに退廃的な感じがするんですが最後の一文がよかったので気のせい。

魔女っ子さーん!

さてさて。終盤に近づいてまいりましたが、続いては魔女話です。
『その名』『魔女の童話 マリーとこころのまじょ』の二本。買った中にたまたま魔女の話があって、というかこの日買った中にファンタジーものはこの二編だけでそれが同じテーマだというのはちょっと面白いなと思って対比させつつ読みました。
『その名』は以前からお知り合いの古川さんの書かれた本なんですが、冒頭から中盤、ファンガの旅行道中が書かれたあたりまでが特にすばらしかったと思いました。同人誌でファンタジーというといわゆる剣と魔法とか、かっこいい登場人物がかっこよく活躍してかっこよく悪人を退治してかっこよくキメ台詞を決めるものじゃないかというようなネガティブなイメージがあるんですが、この人の書くものは割と登場人物のかっこよさに力をさくというよりも世界背景についてのリアリティや空気感を描いているように思います。冒頭、地名や国の名前がぶわあっと羅列されているのに、設定大好き設定厨のような雰囲気がまったくないのは、これは、すごいバランス感覚だなあ、とか。とか。
ただ、終盤の物語が急転するあたりからは少し、それまでと語り口が急に変わったように思えました。日々暮らしているだけで水かきが出来てしまうことを、割と仕方ないことだと受け入れている世界の人々がいて、その一種しずかな退廃感のようなものが、変な世界で面白いなあと思っていたせいかもしれません。僕が個人的に、何も起きないような物語が好きなだけかもしれませんが、その終盤だけなんとなく気になりました。かといって、ツボの話がまったく投げっぱなしだったらんぐんにょりするだろうし。難しいところです。でも面白かったです。割と一気に読んじゃったですよ。
それからそれから『魔女の童話』について。こちらは語り口調が童話調(三人称・文末ですます)で、それに惹かれて買ったんです。だって珍しくないですか。同人誌でですます調のって。『月に負け猫』の「橋の下」も一人称でですます調で、それもちょっと朴訥とした感じが面白かったんですが、こちらは徹底的に童話調です。
童話調、というのは別に子どもに読み聞かせるのを前提においているわけではないと思います。実際、この本でも子どもに聞かせるには難しい語や言い回しが使われていたりするし。でも、やっぱりどこかで作者が一度噛み砕いた感じがあるんですね。あったことや思いついたことや出来た物語をそのまま文章にするのではなくて、ワンクッション置いて文章にしている感じというんでしょうか。僕などは割とのどまでいっぱいっぱいで書いているのでそういう余裕がないのですが、その、行間に感じられる余裕のようなものが読んでいてここちよいように思うんです。子どもが童話を読んで安心するのは、そういう作り手の余裕を感じるからじゃないかしらん?なんつってなんつって。実は、僕が同人誌を一緒にやっている鈴虫さんもこの童話調の語り口を使う人なので、このあたりについては一度聞いてみたい感じです。なんか興味出てきた。
内容については、物語の急転する終盤部分が少し急ぎ足のように思ったんですが、本を愛する気持ちだとか、マリーの日課だとか、やはりディテールがとてもここちよい物語でした。このまま何も起こらないで話が終わらないかなあ、というのは多分僕の個人的な趣味なのでスルーとしてください。僕、何も起こらない物語が本当に好きなんです。あと、サークル名に対して挿絵がない本だったというのは割と「絵本」というものに対する作者の姿勢のようなものを感じて面白かったです。確かに絵本だからって絵がなくちゃいけないという法は確かにありませんね。絵本っぽかったと思います。
あ、それからこの2作品について、「魔法」というものの解釈が割と似ていたのが面白かったです。や、似てないのかな。うーん。とりあえず、魔女はとにかくすごいのでその気になれば派手にドカーンとかそういう感じではなくて、出来ることは限られているとか世間のイメージほど派手なことしてないのよ、みたいなところが僕は好きです。ひっそり生きている魔女がひっそり暮らして何も起こらないというような物語を僕もいっぺん書いてみたいような気がする。今回文学フリマには出てらっしゃらなかったみたいですが、ドイスボランチさんの「箒乗りは終わらない」なんかも思い出しました。思い返せばこれもレビュー書こう書こうと思ってまだ書いてない…。ともあれ、ちょっと魔女モノは良いかもしれません。興味出てきた。

ラブ!

それからそれから、最後になってしまいましたが『片手に祝福』『SMOKE』の二冊。
思ったことがリンクしているカテゴリで幾冊かまとめてレビューしてしまったせいか、最後になってしまってすみません。
まず『片手に祝福』の方は、これまたお知り合いの方のブースで買わせて貰ったのですが、その際にわたくしの申し上げた希望が「いちばんえろくないやつください!」。今にして思うと本当に失礼なことを申し上げました申し訳ない。でも面白かったです。青木さんと土屋さんの関係などから、勝手にサラ・イネスの「誰も寝てはならぬ」なんかの面白さを思い出しながら読んでました。て、本編と関係なくてすみません。装丁に登場人物の絵がある小説だとかについて、僕はよく「これは、本当は漫画にしたかったんだけど小説にしてみた本ではないかしらん」と疑ってかかる癖があるんですが、こちらに関してはちゃんと小説でした。はい。甘い感じでよかったです。あと冒頭のフライヤーのデザインがオサレだと思いました。
『SMOKE』は、作者の方がその業界について詳しそうだったので題材の「金融」に関する取材力について興味を覚えて読みました。業界特有の事情だとか裏話だとか、そういう下地をもとにしてどんな物語が展開されるのかな、という興味です。やはり前半の引き込みは見事なものでした。業界についてほとんど無知な読者に、辺縁を覗かせるようなバランスというか、薀蓄にならないラインの業界説明など、実に見事だったと思います。ですが後半というか、端的に言えば最後の部分について、そのせっかくの取材力が若干薄れ気味だったのが惜しいように思いました。というか、僕がセカイ系についてあまりにも無知なせいで「偽セカイ系」と銘打たれた意図どおりに楽しめなかったのかもしれませんが、ええ。

*1:「光がすべてを包んだ。大きな光と暖かな光がぶつかりあい、やがてそこへ寒々とした光が横合いからあらわれた。大きな光と暖かな光はそれに気付かずただぶつかりあって強大な熱を放射している。二つの光の衝突が激しさを増した瞬間、寒々とした光はまるで忍び込むようにふたつの間に飛び込んだのであった」というような、具体的に指しているものが何なのかを描かず、動作も抽象的な描写が続くもののこと。強大すぎる敵との最終決戦とかの時に多いような気がする。…だと僕は理解しているけど違ったらゴメン。
ちなみに尾崎翠の『地下室アントンの一夜』に「観念的な拳骨をくらわせてやるのだ」とかなんとかそういう感じの描写があってすごく面白く思ったのも今思い出しました。あんまり関係ないけど。